2月11日 <大日本帝国憲法が公布され、「万歳」が初めて唱和(1889年=明治22)>

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1889年(明治22)のこの日、紀元節の佳日を選んで大日本帝国憲法が発布されました。また、その憲法の発布式ではじめて「万歳」という言葉が唱和されました。

これは時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

本来ならば、受験日本史的には大日本帝国憲法の事に関して、色々とお話をしたいところなのですが…今日は憲法はさらりと流して、その発布式の事に言及することにしました。

 

明治初期において、日本が近代的国家体制を確立するために必要な根幹の一つとして重要なものが憲法の制定でした。いわゆる立憲国家を実現したかったのです。

 

ヨーロッパでの立憲的諸制度の調査を終えて1883年(明治16)に帰国した伊藤博文は、1886年(明治19)から井上毅(いのうえこわし)。伊東巳代治(いとうみよじ)、金子堅太郎(かねこけんたろう)らとともに、ドイツ人法律顧問のロエスレル、モッセらの助言を得て、憲法及び付属諸法令の起草に取り掛かりました。

 

完成した憲法草案は、1888年(明治21)4月に新設された枢密院(すうみついん)に於いて、明治天皇の親臨のもとに非公開で審議されました。伊藤博文はこの時、首相を辞して枢密院議長となり、憲法草案の審議を主宰しました。この審議で多少の修正を経て、1889年(明治22)、紀元節という佳日を選んで大日本帝国憲法、そして皇室典範が発布されました。

 

憲法発布の式典は、2月11日の午前11時から内外の高官を招いて宮中正殿の大広間で盛大に行われ、天皇から内閣総理大臣黒田清隆(くろだきよたか)に憲法が手渡されました。

 

その式典で、天皇陛下を奉迎する際にどんな言葉で欣賀の誠を表すかという事について事前に議論がされたのです。決定したのは、文部省の「奉賀」を退けた臨時編年史編纂掛が提案した「万歳」でした。この「万歳」を「ばんぜい」と呼ぶか「まんざい」と呼ぶかについても検討され、結局外山正一(東京帝国大学文科大学長や総長を歴任した文学博士で教育家)の案で漢呉両音混合の「ばんざい」と呼ぶ事に決定したそうです。

 

この日には、全国で憲法発布の祝賀会が催されましたが、国民はお上から与えられた憲法の内容については、殆ど知らなかったのです。日本中が、憲法発布で浮かれるなかで、自由民権運動の指導者であった中江兆民は次のように嘆いて居ます。

「贈与せらるるの憲法、果たして玉か、はた瓦か。いまだその実を見るに及ばずして、ますますその名に酔う。わが国民の愚にして狂なる、何ぞかくの如くなるや」

 

思うのですが、この「わが国民の愚にして狂なる」という有様は、現在にも受け継がれた我が日本国民の特質なのかも知れません。

 

2.他の年、この日の記事

他の年のこの日には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

 

今日はここまでです。

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