1932(昭和 7)年のこの日、日本は「満州国」の建国を宣言しました。
これは昭和時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
1931年(昭和6)年9月の柳条湖事件に端を発した満州事変では、時の若槻内閣は不拡大方針を声明しましたが、軍部を抑えることが出来ず、世論もまた関東軍の行動を支持しました。結局、満州事変の不拡大に失敗した若槻内閣は、軍部の急進派のクーデター計画(十月事件)に脅かされて、同年12月に退陣に追い込まれます。かわって立憲政友会総裁の犬養毅(いぬかいつよし)が新内閣を組閣しました。
時期は若干戻ります。関東軍は満州事変勃発直後から、中国の張学良政権を排除し、満蒙に新政権を樹立して中国国民政府から切り離し、日本の自由となる「独立国」をつくろうとする計画を進めました。若槻内閣、とりわけ幣原外相は、それが中国の主権・独立の尊重を取り決めた九カ国条約の違反になり、日本が海外からの批判に晒される…と危惧して、この軍部の動きに強く反対しました。
ところが関東軍は、政府の反対を無視して計画を実行し、1932年2月までに東三省(黒竜行・吉林・奉天)の要地を占領してしまいました。それには理由がありました。国際連盟のリットン調査団の到着以前に既成事実を作り上げる必要があったので、新国家をとにかく急いで作ったのです。
そのために、関東軍は満州の諸地域を占領後、軍閥や大地主を利用して、地方ごとに名目上の自治や独立を唱えさせました。次いで、建国が住民の自発的意思による…という体裁を整えるため、1932年(昭和7)2月16日に、満州事変の過程で各地に作り上げた傀儡地方政権の代表を奉天に集め、同月18日に独立を宣言しました。
そして1932(昭和 7)年の今日、国名を「満洲国」、国旗は五色旗、元首には執政という役職を定め、元号を大同、首都を新京(長春のこと)とする事等を定め、新国家の建国を宣言しました。その執政には清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀が就きました。
これに対し、当時の国際連盟加盟国の多くは、「満洲地域は中華民国の主権下にあるべき」とする中華民国の立場を支持し、日本政府を非難しました。
その満州国も、第二次世界大戦での日本の敗戦を受け、満洲国皇帝・溥儀が退位して満洲国は滅亡しました。
満州事変に関する記事も併せてお読み頂けると、この満州国の発端について知って頂けるかと思います。リンクをこの文章の下に貼り付けておきますね。
2.他の年、この日の記事
他の年のこの日には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。
- 2018年記事:<百済から人質の王子が送られる(631年=舒明天皇3)>
今日はここまでです。
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