3月1日 <百済から人質の王子が送られる(631年=舒明天皇3)>

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631年(舒明天皇3)のこの日、百済の義慈王(義慈王)は王族の豊璋(ほうしょう)と善光(ぜんこう)との二人の王子を人質として日本に送りました。

これは飛鳥時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

この当時、朝鮮は百済・新羅・高句麗の三国が分立し、互いに対立していました。特に新羅は唐を後ろ盾にして百済・高句麗に対抗を図り、朝鮮半島は激動の時期でした。

そのため、百済は倭(日本)との親交を求め、たびたび使者を遣わし、631年(舒明天皇3)のこの日、百済の義慈王は王族の豊璋王と善光王との二人の王子を人質として日本に送りました。

 

…とまぁ、書きましたが、この内容は「日本書紀」に基づくものなんですけどね…

 

百済の最後の王となった義慈王が即位したのは641年なので、この「義慈王が人質を日本に送った」という史料が正しいのかどうか…「三国史記」の百済本紀には653年(義慈王13)に倭国と通好する、とあるので王子を送った時期がこの頃ではないかとする説もあります。

 

この日本にやってきた2人の王子のうち豊璋王は、660年(斉明天皇6)に唐が百済を滅ぼしたのち、百済遺民の鬼室福信(きしつふくしん)が豊璋を王として迎えることを請求してきたのです。豊璋は百済へ送られ、662年(天智天皇元)に百済の国王として即位しましたが、日本を去る時に織冠を授けられ、百済王が大和朝廷に臣従する形式を取らされました。

その後、豊璋王と鬼室福信とは対立し、663年に福信を殺害、同年、唐と新羅との攻撃を受けて敗戦してしまいます。豊璋王は高句麗に逃れ、その後の消息は不明です。一説によると、豊璋王が逃れていった高句麗もまた内紛につけ込まれて668年に唐に滅ぼされてしまいますが、その際に豊璋は高句麗王族らとともに唐の都に連行され、嶺南地方に流刑にされたということです。

 

もう一人の王子の善光王は、渡来人として倭国に滞在した、と「日本書紀」に記されています。その子孫は、持統天皇より百済氏の中で最も高い格式を持った「百済王(くだらのこにきし)」の姓を賜り、自らの出自である百済の王統を後世に伝えました。

同じように日本に送られてきた兄弟でありましたが、随分と違う境遇でその後の人生を歩んだのですねぇ。

 

 

2.他の年、この日の記事

他の年のこの日には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

 

今日はここまでです。

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