3月12日 <尼港事件で日本軍決起(1920年=大正9)>

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1920年(大正9)のこの日、ニコライエフスクの日本軍が休戦中のソヴィエト・パルチザンを急襲しましたが失敗し、その後日、居留日本人を含め全滅に追い込まれました。

これは大正時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

1917年(大正6)、ロシア革命が起こり、社会主義政権が成立して、ソヴィエト政府がドイツ軍の単独講和を結び、連合国側から脱落すると、連合諸国は革命の影響が広がり、またドイツの勢力がロシア領内の東方にまで及ぶことに大きな脅威をいだきました。

そこで、1918年(大正7)、イギリス・フランス・アメリカなどは、革命軍によりシベリアに追い詰められた連合国側のチェコスロヴァキア軍を救出するという名目で、シベリアに軍隊を派遣し、革命に干渉しました。

日本もこれに協力して大陸へ勢力を張ろうと考え、寺内内郭は連合国側の要請に応じて同年8月にシベリア出兵を宣言し、東シベリア・北満州・沿海州などに軍隊を出動させました。しかし、出兵は十分な成果をあげることなく、また1918年11月にドイツ帝国で革命が起こって停戦すると、連合国はシベリア介入の目的を失い、1920年(大正9)には相次いで撤兵しましたが、日本軍は単独で駐留を続行したのでした。

 

1920年(大正9)2月、黒竜江河口のニコライエフスク(尼港)を占領していた日本軍は、約4,000人の革命派のパルチザンに包囲されて降伏しました。パルチザンの一団は市街を占領すると兵器・弾薬の全面引き渡しを要求してきました。

同年のこの日、日本軍は決起してソヴィエト・パルチザンを急襲しましたが失敗し、多くの兵が捕虜となりました。そして、日本領事館に集まった守備隊や居留民たちはほぼ全滅するという凄惨な有様でした。

 

捕虜となった、日本人外交官や居留民を含む約120名は河畔の獄舎に送られました。救援の日本軍は解氷期を待って6月3日に尼港に到着しましたが、時既に遅し…でした。パルチザンは5月24日夜半に、捕虜をすべて虐殺し、市街に火を放って撤退したあとだったのです。

革命政府は、責任者を死刑に処しましたが、日本軍は、この事件を好材料として国民の反ソ感情を煽り立てたのでした。また、日本側はこの事件を利用して北樺太の保障占領を行いました。

 

こうした悲惨な事件を含んだ日本のシベリア出兵は、約10億円の戦費をつぎ込み、3,000人以上の死者を出して、ほとんど得るところなく1922年(大正11)になってから、ようやく撤退に至ったのでした。

 

2.他の年、この日の記事

他の年のこの日には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

 

今日はここまでです。

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