681年(天武天皇10)のこの日、天武天皇は、朝廷による統治の正当性や国家の形成・発展の来歴を明示することを目的として、国史の編纂を命じました。
これは飛鳥時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
天武天皇は、681年(天武10)3月17日に、日本の国史の編纂を命じました。しかも、2種類作成する事を命じたのです。
一方は太安万侶(おおのやすまろ)と稗田阿礼(ひえだのあれ)とに、もう一方は川島皇子と忍壁(おさかべ)皇子とに作業をさせました。
この国史編纂(こくしへんさん)事業は、奈良時代に入ってようやく実を結び、「古事記」「日本書紀」として完成しました。
元明天皇の712年(和銅5)に出来た「古事記」は、古くから宮廷に伝わる「帝紀(ていき)」「旧辞(きゅうじ)」をもとに天武天皇が稗田阿礼に誦み習わせた内容を太安万侶が文章化したもので、3巻でからなっています。天地創造、日本の国生み(くにうみ)をはじめとして、天孫降臨(てんそんこうりん)、神武天皇の東征、日本武尊(やまとたけるのみこと)の地方征討などの神話・伝承から推古天皇にいたるまでの物語を、天皇を中心に構成したものです。それまでは、口頭で行われていた日本語の伝承を音や訓を用いながら漢字で表記することに、多くの苦心が払われています。
古事記に遅れること8年、元正天皇の720年(養老4)に出来た「日本書紀」は、舎人親王(とねりしんのう)を代表として中国の歴史書の体裁にならって編纂されたもので、漢文により編年体で書かれています。舎人親王は川島皇子たちの作業を引き継いで完成させたのでした。この日本書紀は30巻からなり、神話・伝承を含めて神代から持統天皇にいたるまでの歴史を天皇を中心に記してあります。
これらは、古代史の実像を明らかにするためには十分な史料批判が必要ではありますが、古代史研究の材料を提供する貴重な史料を位置付けられています。
なお、日本書紀以降も朝廷による歴史編纂は平安時代の途中まで引き続いて行われ、合わせて6つの漢文正史が作られました。これらを総称して「六国史(りっこくし)」といいます。それは以下のものです。
- 日本書紀
- 続日本紀
- 日本後紀
- 続日本後紀
- 日本文徳天皇実録
- 日本三代実録
小生は、日本書紀より古事記の方が好きです。それは古事記はロマン豊かであり文学性にも富んでいるからです。
2.他の年、この日の記事
他の年のこの日には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。
- 2018年記事:<上杉景勝、上杉景虎を滅ぼす。御館の乱(1579年=天正7)>
今日はここまでです。
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