10月4日 <富岡製糸場が操業を開始 (1872年=明治5)>

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1872年(明治5)のこの日、群馬県富岡市に造られたフランスからの輸入機械300台と蒸気機関とが据え付けられた新しい工場に、多くの女工が集められて、大規模な生糸生産が始まりました。

これは時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

2014年(平成26)6月21日、カタールの首都ドーハで行われていた第38回世界遺産委員会で、日本の富岡製糸場と絹産業遺産群が世界遺産として登録されました。今回のblogはこの群馬県富岡市にある「富岡製糸場」の話です。

 

明治政府の近代化政策における最も重要な課題は、欧米先進資本主義列強諸国と国際社会において、肩をならべる強国を作るための富国強兵策(ふこくきょうへいさく)でした。経済面においては、それは欧米諸国の経済制度。技術・設備・機械などの導入による政府主導の近代産業の育成、すなわち殖産興業(しょくさんこうぎょう)として現れました。

 

政府は、幕府や諸藩の鉱山や工場を引き継いで官営事業にするとともに、更に欧米から機械・設備を盛んに導入し、外国人技師を招いて官営工場を設立するなどの方法で、近代産業の育成を図りました。とくに、輸出産業として重要であった製糸業では、群馬県富岡市に工場の建設から設備・機械・技術指導まで、その当時、機械製糸の先進国であったフランスにならったフランス式機械製糸場が作られました、指導に当たったのは、フランス人生糸検査技師のブリュナ(Brunat 1840-1908)でした。

 

1872年(明治5)のこの日、フランス式輸入機械300台と蒸気機関とが据え付けられたその工場に、士族の子女など多くの女性労働者(いわゆる女工のこと)が集められて、蒸気力を利用した機械による大規模な生糸の生産が始まりました。

 

富岡製糸場では、優良な生糸が生産されましたが、経営は赤字気味で、1893年(明治26)には三井に払い下げられました。その後、1902年(明治35)に原合名会社、1938年(昭和13)に片倉製糸の経営になり、1987年(昭和62)に操業を停止しました。経営はうまく行かず、経営母体が変わっていきましたが、この富岡製糸場で製糸技術を習得そた富岡工女たちは、その後、各地に設立され普及していった民間の製糸工場で、技術指導する大きな役割を果たしました。

 

この富岡製糸場、生産の立ち上げには様々な苦労があったようです。それは、作業者が集まらない、という問題だったのです。工場のなかで蒸気の力で動く機械で生糸をとるということが理解できない、という原因もあり、また外国人に指導されるのも相当な恐怖だったみたいです。外国人から「血を吸い取られる。油を搾り取られる」といった噂が流れたもので、パニックになったとか。

 

その作業者不足の打開策が、士族の子女の積極的雇用でした。士族階級には教養があるから、上記の様な根も葉もない噂の呪縛から抜け出すのも早かった…ということです。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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