3月14日 <西郷隆盛、勝海舟と江戸開城直談判(1868年=明治元)>

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1868年(明治元)のこの日、その前日から2日続きで西郷隆盛と勝海舟とが江戸薩摩藩邸で会談し、江戸開城などを含む講和が成立しました。

これは明治時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

今回はいつもより長く5分程度で読める記事です。
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1.解説

 

京都で「王政復古」政権を樹立した薩長連合を中心とする倒幕派は、1868年(明治元)1月の鳥羽・伏見の戦いの勝利ののち、新政府は徳川慶喜追討令を発して、東海・東山・北陸の三道から江戸を目指して東征の軍を進攻させました。大総督が有栖川宮熾仁親王で、大参謀が西郷隆盛でした。

同年2月には、慶喜は上野寛永寺に謹慎して恭順の意を示しましたが、新政府軍は強硬な処分を主張して3月15日を江戸城総攻撃の日と決めました。

この慶喜の上野寛永寺で謹慎する話は、別記事として公開してあるので、併せてご笑覧ください。

2月12日 <徳川慶喜が、江戸城を出て上野寛永寺に移りました(1868年=明治2)>

 

江戸では、種々のルートで和解を模索したのですが、西郷隆盛は厳しい態度で臨んでいました。

岩倉具視は、徳川一門と前将軍の夫人静寛院宮の嘆願に対して、慶喜の謝罪の誠意があらわれるならば、その助命と徳川家存続は認めるつもりでした。ところが、西郷は、慶喜が謝罪して退隠(隠居)するかわ徳川家は存続されたいと嘆願したのに対し2月2日の時点では

「はなはだもって不届き千万、是非切腹までには参り申さず候ては相すまず、静寛院と申しても、やはり賊の一味なりて、退隠ぐらいにて相すみ候ことと思しめされ候わば、致し方なく候につき、断然追討あらせられたきこと存じ奉り候。かくまで押し詰め候ところを寛大に流れ候ては、ふたたびほぞをかむとも益なきわけに到り候わん」

と大久保利通に書き、その大久保もまた、慶喜の罪は

「天地の間容るべからざる大罪なれば、天地の間を退隠すべし」

と書いていました。

 

江戸幕府に山岡鉄舟という地位の低い旗本が居ました。剣術に優れ、禅の修養を積んだ気骨のある侍でした。鉄舟は、なんとかして主家の危急を救うべく、自分が東征大総督の有栖川宮熾仁親王に誠意を尽くして嘆願しようと考えましたが、幕府の役人は、これを全く相手にしませんでした。たまたま1868年(明治元)3月5日、鉄舟は勝海舟に会う事が出来たので、その志を述べると、勝はひと目で鉄舟が非凡の人物であることを見抜き、おおいにこれを励まし、そしてかねて互いに尊敬しあっていた西郷に手紙を書いて、これを鉄舟に託したのです。

 

なんと、この時、勝海舟の家には、その前年末に三田の薩摩藩邸焼き討ちのさい、幕府が捕らえていた薩摩藩士益満休之助が預けられていたのです。勝はこの益満を鉄舟に同行させ、東征軍に対する顔パスを目論見ました。

同年3月6日、鉄舟は益満とともに江戸を発ち、そして東征軍の前線を、「薩摩藩士が急ぎ総督府に連絡に行きますよ…」といって首尾よく通り抜けたのでした。そして3月9日、鉄舟は無事、駿府に入り、ただちに大総督府に西郷参謀を訪ね、勝の手紙を渡したのです。

勝の西郷への手紙には以下の様に書いてありました。

「徳川氏の士民もまた皇国民の一人であり、かついまの日本は、兄弟は牆(垣)の内で争うとも、外敵には一致して当たるべきときであると考えて、徳川の君臣一致して恭順している。しかし、江戸は四通八達の地で、数万の士民が往来しており、あるいは『不教の民』が主君の意を解せず、今日の大変に乗じてなにをするかわからない。自分はその鎮撫に全力を尽くしているが、ほとんどその道がない。しかし、後宮には天皇の叔母静寛院宮がおられる。『一朝不測の変にいたらば頑民無頼の徒何らの大変牆内に発すべきか、日夜焦慮す』。『軍門参謀諸君、よくその情実を詳にし、その条理を正されんことを』」

 

この手紙には、もし官軍が江戸を攻撃すれば、いかなる大変がおこるかもわからない…と強調し、西郷君よ、ここを察せよ…というだけで、一言も徳川家を助けてくれとは書いてないのです。

鉄舟からその手紙の趣旨を詳しく聞き、その意味するところをすぐに理解した西郷は、鉄舟をしばらく待たせて参謀会議を開き、大総督の承認を得て、慶喜謝罪の7条件を提示しました。

  1. 慶喜を備前藩に預ける
  2. 江戸城明け渡し
  3. 軍艦引き渡し
  4. 兵器引き渡し
  5. 城内居住の家臣は向島へ移り、謹慎する
  6. 慶喜の妄動を助けた者の謝罪の道をたてる
  7. 幕府で鎮撫しきれず、暴挙する者あれば、その者のみ官軍が鎮定する

以上の7条件が実行されるなら、徳川家存続は寛大に処置する、という内容でした。

鉄舟は、第2条件以下は即座に承服しましたが、第1条件には反意を示しました。西郷もまた一歩も譲らず、両者激論を戦わせました。その間に、西郷は鉄舟の誠意に感動させられ、そして「慶喜のことは私が一身に引き受ける」と答えたのです。鉄舟は感謝し、西郷から官軍陣営通行証をもらって、急ぎ江戸に戻りました。

 

西郷は同年3月13日に江戸高輪の薩摩藩邸に入りました。ただちに西郷を訪問した勝は、互いに再会を喜びあったのち、「一朝不測の変あれば静寛院宮の安全をどうするか、よく考えられたい、後は明日談判しよう。」とだけ言って帰っていきました。

そして、その翌日の1868年(明治元)のこの日、西郷と勝とはふたたび会談し、勝の方から、西郷が鉄舟に持たせた7条件につき、第1条件の慶喜を備前藩に預けるのを、水戸に引退して謹慎する、と改めたほかは、殆ど大差ない7条件を提示しました。西郷はそれに同意し、大総督のゆるしを受けよう、と答えたのでした。

 

西郷は、そこですぐに駿府に使者を出し、翌日に迫った江戸城進撃の中止を命じさせました。下の画像は、明治神宮絵画館に所蔵されている結城素明が書いた西郷隆盛(左)と勝海舟(右)との江戸城明け渡しの談判の図です。

 

<江戸城明け渡しの談判>

 

その1ヶ月程前は、慶喜の断罪を強調していた西郷がなにゆえ変節したか? については、

「古い秩序を守りつつ、新政府への移行をスムーズにする」ことが念頭にあったとする説があります。実は長州藩は、下級藩士が力任せに突っ走り、それをコントロールするのに四苦八苦するという傾向があったため、何が何でも強硬一点張りで…という考えが薄らいでいた様なんです。

それと、勝が提示した7条件は、西郷が総督府で決めた7条件と基本的には同じであり、慶喜のことは西郷が受け止めたので、モメるような内容では無かったゆえに、通りやすい内容でありました。

 

世にいう、西郷隆盛・山岡鉄舟・勝海舟、この英傑同志が肝胆相照らし、心を突き動かされる…みたいなことではない様です。

 

 

2.他の年、この日の記事

他の年のこの日には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

 

今日はここまでです。

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