10月5日 <足利尊氏が、天竜寺を創建(1339年=暦応2・延元4)>

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1339年(暦応2・延元4)のこの日、足利尊氏・直義兄弟が同年8月に崩御した後醍醐天皇の冥福を祈るために造営しようとした天竜寺の建立の許可が下りました。

これは南北朝時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

今日の表題をみると、西暦年の後に、和暦の年号が2つ有ることにお気づきの方がおられるかもしれません。これは間違えたワケではないのです。

まず、本題に入る前に、その2つの和暦の経緯をご説明申し上げましょう。

 

足利尊氏が、室町幕府を成立させるために京都に入った時の天皇は、後醍醐天皇でした。尊氏は後醍醐天皇を廃し、持明院統の光明天皇を擁立しました。鎌倉時代の後期1272年(文永9)に後嵯峨上皇が後継者を指名することなく世を去ったため、皇統は後深草上皇の流れをくむ持明院統と亀山上皇の流れをくむ大覚寺統とに分裂したのです。で、足利尊氏が擁立した光明天皇は持明院統で、後醍醐天皇は大覚寺統でした。

尊氏はついで、当面の政治方針を明らかにした建武式目(けんむしきもく)を発表しました。この際、幕府を何処に置くのかも議論されました。新政府と絶縁して鎌倉に武家だけの政権を作ろう!という足利直義の意見は多くの賛同者をえたものの、結局は京都での幕府開設で行くことに決まりました。1336年(建武3)11月7日に建武式目の制定され、室町幕府が成立したのです。

廃された後醍醐天皇はというと、1336年(建武3)末に、京都を脱出して吉野にこもり、自らが正統の天皇位にあることを主張しました。京都の朝廷(北朝)に対して、吉野にも朝廷(南朝)が出現したのです。これ以降、約60年にわたり、両朝が相並び立つ状態にあったので、この時期を南北朝時代と呼ぶのです。南朝・北朝それぞれに年号があった為に、表題の様に和暦が2種類あるのです。

 

 

足利尊氏・直義兄弟は、1339年(暦応2・延元4)の8月に崩御された南朝の後醍醐天皇の菩提を弔う為に、天竜寺を造営することにしました。そして、同年のこの日、天竜寺の建立が許可されました。この寺は、京都市右京区にあり、臨済宗天竜寺派大本山で、正式には霊亀山天竜資聖禅寺といいます。開山は、その当時の尊氏から絶大な信頼を寄せられていた夢窓疎石(むそうそせき)で、この天竜寺造営を提案したのも夢窓疎石です。仏殿・山門・法堂などが完成したのは4年後の1343年(康永2・興国4)でした。

 

 

この天竜寺の造営費をまかなうため、中国の元に派遣された室町幕府公許の貿易船があり、その名を天龍寺船(てんりゅうじぶね)といいます。派遣されたのは1342年(康永元・興国3)で、有力商人の至本(しほん)が、帰国の日に現銭5,000貫文を天竜寺造営費として納める事を請け負ってこの船の元締めとして動きました。5000貫文は、現在の貨幣価値になおして5〜7,5億円位だそうです。

 

この天竜寺の大方丈前の庭園は、夢窓疎石の作庭と伝えられ、特別名勝と指定されています。さらに、「夢窓疎石像」「観世音菩薩像」ほか多くの文化財があります。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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