1612年(慶長17)のこの日、岡本大八(おかもとだいはち)は、キリシタン大名有馬晴信を欺いた、いわゆる岡本大八事件により、駿府の安倍川の河原で火刑に処せられました。
これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
岡本大八は、徳川家康の側近である本多正純(ほんだまさずみ)の家臣で、パウロという洗礼名のキリシタン武士でした。大八は、はじめ長崎奉行長谷川藤広に属していましたが、そののち本多正純の与力となり、その取次役として羽振りを利かせました。
岡本大八が長崎勤務であった時、1609年(慶長14)に徳川家康の許可を得て有馬晴信が行ったポルトガル船ノッサ・セニョーラ・ダ・グラッサ号の焼き討ち事件に絡んで、大八はその恩賞として晴信に対し、彼の旧領で、当時鍋島領であった肥前藤津・彼杵・杵島の3郡を賜るよう斡旋すると詐り、多額の賄賂を受け取ったのです。
その後1612年(慶長17)に、沙汰のないことに不審を懐いた晴信が本多正純に事の成否を問いただしたことから、この収賄が露見してしまいました。大八は、同年2月23日に駿府で両人対決のもと吟味が行われ、大八の非分が明白となりました。
そして同年のこの日、大八は駿府の安倍川の河原で火刑に処せられました。
ところが、事件はこれで収束しませんでした。
収賄事件追及のための取調ののち、大八は獄中より、晴信の長崎奉行長谷川藤広暗殺未遂を暴露したのです。そのため、同年3月18日に、再び両者対決の吟味が行われ、晴信はこの暗殺未遂に関して十分な弁明が出来ませんでした。
晴信も領地没収のうえ甲州前林に配流となり、同年5月6日には切腹を命じられてしまいました。
この事件は、単なる収賄事件であったというだけでなく、所領紛争と、当時の長崎貿易をめぐる紛争、さらには、長崎貿易の仲介者であったイエズス会宣教師の政治介入など重大な問題をはらんでいました。そして大八と晴信との両者がキリシタンであったため、幕府の注目をひき、その後のキリスト教禁教政策の契機となった事件でした。
2.他の年、この日の記事
他の年のこの日には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。
- 2017年記事:<山県有朋、枢密院議長の辞職を申し出る(1921年=大正10)>
今日はここまでです。
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