3月27日 <潜伏中の大塩平八郎、幕吏に包囲され自刃(1837年=天保8)>

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1837年(天保8)のこの日、同年2月19日に挙兵した後、潜伏していた大塩平八郎が幕吏に発見され、その包囲の中、自刃して亡くなりました。

これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

1837年(天保8)2月19日に、元大坂町奉行所与力であった大塩平八郎が起こした「大塩平八郎の乱」ですが、その日の夕刻までには完全に鎮圧され、一党は四散し、首謀者の平八郎もまたその場から姿を消してしまいました。

この大塩平八郎の乱については、拙Blogの2月19日の記事がありますので、そちらも合わせてご笑覧下さい。

2月19日 <大塩平八郎の乱が勃発(1837年=天保8)>

 

事件後の厳重な探索で、首脳者はつぎつぎに自首・自殺あるいは逮捕されましたが、平八郎父子の行方だけは容易に確認できず、人々の心も何かしら落ち着かない状態が続いていました。

実は、平八郎は事件の数日後、大坂に舞い戻り、下船場の靱油掛町の商家美吉屋五郎兵衛宅の裏庭の隠居宅に潜伏していたのですが、その美吉屋の女中が、いつも2人分の食事が余分にあるのを不審に思って、通報したことがきっかけで幕府方に発覚してしまいました。

そして、同年1837年(天保8)のこの日、逮捕に駆けつけた幕吏に囲まれる中、平八郎は隠れ家に火を放ち、養子の格之助と共に短刀と火薬を用いて自ら命を断ちました。享年45歳でした。

 

幕府は、焼けただれて面体も判らぬ焼死体を塩漬けにして、翌1838年(天保9)9月18日に大塩一党の者たちが処刑された際に、その黒焦げの死体をわざわざ磔にしたのでした。

この残酷な処置は、幕府が大塩平八郎の乱によって受けた打撃の大きさを物語っている、と言えましょう。

 

 

2.他の年、この日の記事

他の年のこの日には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

 

今日はここまでです。

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