1607年(慶長12)のこの日、駿河国興国寺藩の藩主天野康景は、天領農民の悪行を成敗した家臣をかばって逐電しました。
これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
ことの経緯から見てみましょう。
天野康景が、駿河国興国寺藩一万石の藩主であった時のことです。
康景が貯えた竹木を盗んだ農民を、家臣の足軽が殺害したのです。ところが、その農民は天領の領民だったんですねぇ。天領の領民は幕府直轄の民なので、その民を殺害するということは、幕府に弓をひくことになるのです。天領の農民を家臣が殺害した事を問われた康景は、曲がったことが大嫌いであったらしく、1607(慶長12)年3月9日の夜、子の康宗とともに逐電(ささっとトンズラすることです)したため、改易に処せられました。ま、殿様をクビにされました、というワケです。
その時の事は、新井白石 が編纂した「藩翰譜(はんかんふ:大名の家伝、系譜資料集)」には以下の様に記されているそうです。Wikipediaからの引用です。
天野康景は以下の様に、幕府の役人に言われました。
「土民なりといへども公の民なり、和殿が兵は私の人なり、…和殿いかで私の義をたてんとて、公の威を損ずべきようやある、…」
→現代語訳:地元民といっても公儀の民であり、貴方の兵は私兵である。…貴方がたとえどのように自分の義を立てようとしても、どうして公儀の権威を損ねるような仕方があろうものか…
(Wikipedia「天野康景」からの引用)
すると康景は…
「…直きをまげて曲れるに随はん事、素懐にあらず…」
→現代語訳:正しきを曲げて間違った事に従うのは、自分の常の心掛けと異なる
(Wikipedia「天野康景」からの引用)
として、
「忽ちに興国寺の城を去って逐電し訖んぬ」
→現代語訳:すぐに興国寺の城を去って行方をくらましたのであった
(Wikipedia「天野康景」からの引用)
道義的に問題があっても、江戸幕府と幕府が定めた法は絶対、であったのです。
この天野康景の名前をみて、更に駿河国という土地…というところでピン!と来られた方はいらっしゃいますか?鋭いですねぇ。康景という人物について触れておきましょう。
天野康景は1537年(天文6)、三河国生まれです。最初は景能(かげよし)という名前でしたが、のちに徳川家康から一字を与えられて康景と改名しています。
康景は11歳の時に家康の小姓となって尾張に随行し、その後駿府もともに行っています。今年の大河ドラマ「おんな城主 直虎」で家康が「三河のぼんやり」と称されて今川家に居たときも康景は側で仕えていたんですね。
家康が三河の岡崎城に戻ってからも(まさに3月5日放送の大河ドラマに出た内容です)、康景はしっかりと仕事をこなしていました。1563年(永禄6)には三河の一向一揆で功績を立て、1565年(永禄8)には本多重次、高力清長と共に三河三奉行に任命され、徳川氏の民政や訴訟を担当しました。1586年(天正14)には甲賀の士(忍者)を付属され(統率し)、1590年(天正18)に家康が関東入りした際には下総国香取郡大須賀領のうちに3,000石を与えられ、一時江戸町奉行に任命されました。
そして、遂に!1601年(慶長6)には譜代大名に取り立てられ駿河国興国寺藩に一万石を与えられたのです。家康の信任は厚かったようです。その証拠に、上に挙げた新井白石の「藩翰譜」には次の様な記述があります。
家康は、天野康景と天領代官の井出甚助との両人を駿府に召して言い分を聴き、そして、家康は以下の様に言ったそうです。
「康景は非拠を論ずべき者にあらず、如何さまにも訴ふる者の偽る所にや」
→現代語訳:康景は根拠の無い事を論ずるような者ではない。どう見ても訴えている者の偽り事ではないか
(Wikipedia「天野康景」からの引用)
道義的に問題があっても、江戸幕府と幕府が定めた法は絶対でなければならない…それは、家康も譲れないことであったのです。
2.他の年、この日の記事
他の年のこの日には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。
- 2018年記事:<初めての記念切手発行(1894年=明治27)>
今日はここまでです。
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