9月22日 <応天門放火の罪で、伴善男ら配流(866年=貞観8)>

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今日という日はどんな日でしょうか?

日本史の世界の出来事を覗いてみましょう。

 

866年(貞観8)のこの日、朝廷は大納言伴善男(だいなごんとものよしお)らに、流罪の判決を下した。罪は応天門に対する放火である。善男の子右衛門佐中庸(なかつね)のほかに友人らも流罪に処されました。

 

これが、平安初期に起きた応天門の炎上をめぐる疑獄事件「応天門の変」の結末です。

 

事の発端は、この年866年(貞観8)の閏(うるう)3月10日に、平安宮朝堂院の正門である応天門が怪火によって東西二楼とともに炎上した事にあります。この時、犯人は左大臣源信(みなもとのまこと)であると疑いが掛けられました。それは、以前宮中に「源信が謀反の企てをしている」という投書があり、その投書をもってして「応天門に火を放ったのは源信だ!」と息巻いたのが伴善男だったのです。

 

その頃、伴善男は大納言兼民部卿太皇太后宮大夫という要職にありました。これは右大臣に次ぐ位です。

 

この時期の位階は、それまでの天皇に対する伝統的な奉仕関係に基づくものではなく、天皇との個人的な結びつきが貴族の朝廷での地位を左右するようになっていたのです。

では、その「天皇との個人的な結びつき」の要素にはどんなものがあったのかを整理すると、以下の4つにまとめられます。

1.文人としての教養:9世紀の漢文学隆盛の風潮のなかで、大学で紀伝道を修めた学生が、天皇に注目されて昇進を遂げる…というパターン
2.官吏としての政務能力:儒教的思想に裏打ちされた政治理念の持ち主や、実務的な官吏として優れた能力を発揮した者、国司・将軍をして任地で功績をあげた者などが公卿の地位まで昇りつめる…というパターン
3.天皇の父方の身内:嵯峨天皇がその皇子・皇女に源朝臣(みなもとのあそみ)の姓を与えて(嵯峨源氏)以来、歴代の天皇がそれにならった「賜姓源氏(しせいげんじ)」で、その出自の高さから多くの公卿が出る…というパターン
4.天皇の母方の身内:いわゆる外戚。

今日の主人公、伴善男は、上記のパターンで言えば2に当たり、その深い学識と優れた政務能力によって異例の昇進を遂げていました。

 

ところが、この伴善男は評判はあまり良くなかったらしいのです、目が窪んで暗い表情をしているだけでなく、議論好きで、いったん議論を始めると、相手を徹底的にやっつけずにはいられない性格だったこともあり、皆に嫌われていたそうです。

 

この嫌われ者だった、伴善男を、仁明(にんみょう)・文徳(もんとく)・清和(せいわ)の代々の天皇が愛し、重用して行きましたが、そのころの朝廷は天皇の外戚である藤原家一門でガッチリ固められていたのです。そこで、伴善男が一計を案じ、太政大臣藤原良房に次ぐ地位を占めていた嵯峨源氏の源信追い落とそうとしていたのです。それが上記の応天門炎上の責任を源信に負わせようした背景なのです。

 

ところが、同年8月になり左京の人で備中権史生大宅鷹取(おおやけのたかとり)が、犯人として伴善男を告発し政治的事件として表面化しました。善男は、尋問に対して強く否認しましたが、鷹取の女を殺し鷹取を傷つけた事件で調べられた善男の従者生江恒山(いくえのつねやま)・伴清縄(とものきよただ)が、善男が源信を失脚させるために子の中庸(なかつね)に命じ放火させたと自白しました。

 

9月には伴善男父子ら5人が死一等を減じて遠流に、紀夏井(きのなつい)・紀豊城(きのとよき)ら8人も流刑に処せられました。善男らの田宅・資財も没収され、善男は配所の伊豆で868年に没しています。

 

なんともスッキリしない事件ではあり、その真相は不明ですが、8月に摂政になった太政大臣藤原良房が関与し、炎上事件を政治的に利用して伴善男・紀夏井らの有能な官吏を排除したものと推定されます。この事件の経過は12世紀後半の「伴大納言絵巻(ばんだいなごんえまき)」の題材として詳しく描かれています。

 

それと、上記のような上級貴族間の内部抗争というだけでなく、善男の暗い性格にも、この事件の一因があったとも言われています。

 

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