4月17日 <徳川家康没す。原因は食中毒? 胃ガン?(1616年=元和2)>

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1616年(元和2)のこの日、江戸幕府初代将軍徳川家康が没しました。

これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

徳川家康の死因については、諸説ありますが、現在の主流は胃ガン説です。その病状については、徳川家の歴史を記した公式文書である『徳川実紀』や家康の侍医の片山宗哲が残した『片山家譜』に以下のように記されています。

「見る間に痩せていき、吐血と黒い便、腹にできた大きな腫瘤(しこり)は、手で触って確認できるくらいだった」

(Wikipedia「徳川家康」から引用)

こうした諸症状が胃ガン患者に多く見受けられるものである、というのが胃ガン説の論拠です。

 

実は、もう一つ面白い説があります。それは以下の様な天麩羅食あたり説です。

 

徳川家康の発病は、1616年(元和2)正月21日のことでした。駿府郊外へ鷹狩りに出かけた家康は、狩りの途中で転倒し、田中城(現在の藤枝市)で休養をとりました。

 

その日、京都から茶屋家の初代・茶屋四郎次郎清延がやってきて面白い話をしたのです。

徳川家康:「近頃、上方で何か面白いものはないか?」
四郎次郎:「京阪の辺では鯛を榧(かや)の油で揚げ、その上に韮(にら)をすりかけて食べるテンプラなる一品がございます。手前も食しましたが、なかなか美味でございました」

 

そこへ、榊原晴久(さかきばらはるひさ)が久能浜でとれた大鯛二尾と甘鯛三尾を家康に献上してきました。清次の話を思い出した家康はさっそく料理番に作らせました。

 

一口食べた家康は、

「これは旨ぁい!!」

と大層気に入り、爆食したそうです。ところがその夜、腹痛と猛烈な下痢に襲われてしまいました。駿府城へもどってからも、病状は一進一退をくりかえし、2月5日重体におちいったものの、もち直したのでした。

 

しかし 医者らはさじを投げており、家康も75歳の高齢であったので、死期を悟り、4月15日、都筑景春を枕元によび、三池(光世)の刀を取りだすと、罪人の試し胴を命じました。都筑はさっそく罪人を斬り、刀を持ち帰ると、家康は手にとって眺めていましたが、2〜3度振り回してから、次の様に言いました。

 

「さすが名刀である。刃こぼれ一つない。われはこの刀で子孫を護ってみせる」

 

この三池の刀は、のちに久能山に奉納されました。

 

そして、家康は2日後の1616年(元和2)4月17日巳の刻(午前10時ごろ)、容態が急変して亡くなりました。

 

これが、昔から言われていた食中毒説ですが、食後3ヶ月後に死亡というのは考えにくいということもあり、現在は主流ではありません。

 

亡くなる前日、家康は榊原晴久を呼び、遺言を残します。

「われが亡きあとは神式をもって葬儀を行ない、その方がのちのちまで祭主を務めよ。また、東国の諸大名は譜代が多いので心配はないが、西国の諸大名は気が許せぬ。わが体は西に向けて葬るがよい。死しても西国鎮護を続ける」

 

榊原は、江戸の将軍秀忠にこの遺言を伝え、それに従って家康の遺体はその夜、本多正純(ほんだまさずみ)らの手によって久能山へ運ばれましたが、 関係者以外の入山は禁じられました。仮殿は2日間の突貫工事で完成したそうです。その翌年、遺言は無視されて日光山に改葬されたんですけどね。

 

『東照宮御実記』が伝えるところでは、家康は以下の2首を辞世として詠んでいます。

  • 「嬉やと 再び覚めて 一眠り 浮世の夢は 暁の空」
  • 「先にゆき 跡に残るも 同じ事 つれて行ぬを 別とぞ思ふ」

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

 

今日はここまでです。

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