1918年(大正7)のこの日、美濃電気軌道では、我が国で初めて車掌に女性を登用しました。
これは大正時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
鉄道の社会というのは、どうやら男性社会、いや男尊女卑とでもいうべき風潮があった様です。
明治時代、鉄道関係に従事する女性は多くはありませんでした。
私鉄の中には、1890年(明治23)に讃岐鉄道が出札作業をする女性社員を募集したものの、応募してくる女性は居なかったそうです。また列車乗務員への女性採用もなかなか行われませんでしたが、1889年(明治32)に山陽鉄道で食堂車を連結した列車が走り始めてから、ようやく女性乗務員への門戸が開かれたのです。
山陽鉄道の食堂車のことは、別稿を公開しておりますので、どうぞご笑覧下さい。
→5月25日 <日本初の列車食堂運行開始!(1889年=明治32)>
1902年(明治35)になると、以前出札員に女性を採用しようとした讃岐鉄道が、次いで1906年(明治39)には南海鉄道が、それぞれ食堂車での接客員として女性を採用したのです。
また、官営鉄道の鉄道作業局でも、1903年(明治38)に新橋駅で女性が乗車券販売に従事することもありました。この表現が若干微妙なのは、業務が困難ではなかった閑散期に限って女性が対応した…とのことだったからです。
美濃電気軌道では、そうした乗務員への女性進出をさらに一歩推し進めて、1918年(大正7)のこの日、初めて女性を車掌に登用したのです。
それには、社会的な背景もありました。
1914年(大正3)6月のサラエヴォ事件を機に国際危機が爆発し、全ヨーロッパを戦争に巻き込んだ第一次世界大戦が勃発しました。日本経済は、明治末期から慢性的な不況と財政危機とに悩まされていましたが、この第1次世界大戦をきっかけに空前の好況を迎え、いわゆる大戦景気のブームが訪れたのでした。
日本も参戦したものの、アメリカとともに戦争の直接的な被害は殆ど受けず、ヨーロッパ列強が戦争で手一杯なのに乗じて中国市場を殆ど独占し、さらに全世界に日本商品を売り込んだのです。
そうした産業の好況に支えられて、工場労働者数も大幅に増加しました。10人以上の従業員を使用している民間工場の労働者数は、第1次世界大戦開始の1914年(大正3)時点では85万人でしたが、その5年後の1919年(大正8)には147万人になったのでした。
こうした背景で、美濃電気軌道ではなかなか乗務員が集まりませんでした。そこで、女性を採用しとうではないか…というのが女性車掌導入の契機でした。当初は昼間時間帯のみの乗務でしたが、その後、始発から終電までのほぼ全時間帯で勤務させるようにしたそうです。
ちなみに、国鉄で女性車掌が登場したのは、1944年(昭和19)でした。これまた、社会的な背景がありまして、男子職員が第2次世界大戦に兵として徴用されて人員不足となったのを解消するためでした。
2.他の年、この日の記事
他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。
今日はここまでです。
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