4月27日 <頼朝、以仁王の令旨を受ける(1180年=治承4)>

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1180年(治承4)のこの日、源頼朝は、伯父の源行家から以仁王の平氏追討の令旨を受け取りました。

これは平安時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

平氏は、従来からあった国家組織にのって、その組織の官職を一門で独占するというかたちで政治への支配力を強めていきました。そのために、そこから排除された旧勢力からは非常に強い反感を抱かれました。

 

また、清盛の妻の姉妹で、後白河法皇の妃となっていた建春門院(けんしゅんもんいん)が亡くなると、法皇や院近臣との対立が深まっていきました。

 

そして1177年(治承元)には、法皇の近臣藤原成親(ふじわらのなりちか)・西光・僧俊寛(しゅんかん)らが京都郊外の鹿ヶ谷(ししがたに)で平氏打倒の謀を巡らし、失敗する事件がおきてしまいました。

 

さらに、1179年(治承3)になると、法皇を中心に反平氏の動きが表面化したことから、清盛はついに法皇を幽閉し、関白以下多数の貴族の官職を奪い、処罰するという強圧的な手段に訴えました。そうして平氏の専制的政権を築き上げました。

 

しかし、貴族や太寺社、地方の武士たちの平氏への不満は強く、平氏政権の繁栄は長くは続きませんでした。

 

1180年(治承4)、清盛が孫である幼い安徳天皇を位につけると、後白河法皇の第2皇子以仁王(もちひとおう)と源頼政(みなもとのよりまさ)とは、園城寺(おんじょうじ)や興福寺を味方にして平氏打倒の兵をあげたのです。

 

大寺社の僧兵の力が一つにまとまるのを恐れた清盛は、ただちに攻撃を加え、頼政は宇治で討死して、以仁王も奈良に向かう途中で討ち取られてしまいました。

 

しかし平氏追討の決起を呼びかける以仁王の令旨(りょうじ)は諸国に伝えられ、これに呼応した武士たちがつぎつぎと立ちあがりました。彼らは各地の国司や荘園領主に対抗して自己の所領の支配権を強化・拡大しようとしており、その障害となる平氏政権を否定したのでした

 

内乱は全国に広がり、5年にわたって戦いが続けられました。これが治承・寿永の内乱です。

 

 

平氏に反する勢力のうち、とくに強大だったのは源頼朝の勢力でした。

 

頼朝 は源義朝の子で、平治の乱のあと伊豆に流されていました。その頼朝のところへ、1180年(治承4)4月27日に、叔父の源行家が以仁王の令旨を伝えにやってきました。行家は以仁王の陰の後援者である八条院(はちじょういん)の蔵人(くろうど)であった関係から、この令旨を伝える役割を果たしたのでした。

 

令旨を受け取った頼朝は、平氏打倒のための挙兵の決意を固め、そして遂に同年8月、妻政子の父北条時政らと挙兵しました。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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