1716年(正徳6)のこの日、江戸幕府は交通死亡事故に関して、被害者を死に至らしめた加害者は流罪に処す、と命じました。
これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
江戸などの大都市では、人や物資の流入増加とともに馬や車(牛車や大八車など)も増え、さほど広くない街路は混雑し、事故が多発しました。
大八車で事故?と思われる方もおいでかもしれませんが、江戸に限らず町にある道は平坦なものばかりではありませんでした。そうです、坂道です。積荷をフル積載した大八車はどうなるでしょうか。下り坂に1mmでも差し掛かった大八車は問答無用に加速を始めます。もちろんブレーキなんて付いていません。人力ブレーキしかないのです。
「やめてっ、止めてっ、やめてっ、止めてっ、ああああぁぁぁぁぁ…」
となるのは必定の理(ひつじょうのことわり)でありまして、勢いのついた大八車を避けきれずに事故に至る。なぁんて話は結構あったようです。
それと、牛車は、暴走した牛が引いていた車にはねられて、という事故がたびたび起こっていました。
こうした交通事故を防ぐ為に、元禄年間(1688〜1704年)ごろからは交通規制が定められるようになっていいました。それは以下の様なものに関する規定です。
- 荷物の過積載
- 車間距離
- 牛馬への付添人
- 橋や辻での駐車制限
しかしながら、こうした規制もむなしく、交通死亡事故は増加の一途をたどっていました。
その為、1716年(正徳6)4月6日、江戸幕府は、交通死亡事故に関して、それまで過失として罪を問わなかった原則を改め、厳罰主義に転じました。馬や車が人を轢いたり引っ掛けたり、或いは積み荷の荷崩れや、荷船の転覆などで死亡者が出た場合は、たとえ過失であっても流罪とし、事情によってはさらに重罪を課すと命令を出しました。
この規定は昨日ご紹介した「公事方御定書」「御定書百箇条」などにも記載されており、その御定書が作られた頃には、この流罪の罪はさらに厳罰化が進み死罪に処される場合や、荷主への連帯責任まで規定する様になりました。
重罰化を進めなければ、交通事故の防止には効果がなかったのでしょう。
2.他の年、この日の記事
他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。
- 2018年記事:<道鏡、左遷先の下野国で没する(772年=宝亀3)>
今日はここまでです。
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