5月23日 <印地打ち、禁止!(1107年=嘉承2)>

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1107年(嘉承2)のこの日、検非違使によって、京都の印地打ちが禁止されました。

これは平安時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

さて、見慣れない言葉が出てきましたね。

印地打ち

 

まず、この言葉について簡単に触れておきましょう。

 

この印地打ちは、河原などで大勢が二手に分かれ、相対して石を投げ合い勝敗を競う遊戯、 またその行事のことです。石合戦とも言い、「嬉遊笑覧』に「いんぢは石うちなるべし」とあって、石打から転じた言葉であるとされています。

 

古くは、部落対抗の綱引きなどと同様に吉凶を占う正月の年占としておこった年中行事であったと思われますが、のちには正月と限らず行われ、ときに烈しい争闘となることもあったようです。

 

「年中行事絵巻」という史料に街路上での石合戦が2場面描かれており、その一つは正月の、他は五月のものと考えられています。その絵には、

  • 縄に石をくくりつけて振り廻し、勢いをつけて投げる者
  • 防御の身ごしらえをした者
  • 木刀のようなものを携えている者
  • 頭上の荷物に石をあてられた通行人
  • 築地塀ごしに戦況をみている見物人

などが描かれています。

 

さて、この印地打ちですが、京都でも1106年(嘉承元)ころから市中の下層民のあいだでは辻ごとに行われて死者も出る騒ぎになっていたので、1107年(嘉承2)5月23日に、京の石つぶての投げ合いが検非違使によ って制止されている、と「百錬抄」という史料に記録が残っています。

 

 

しかし、その後も京都市中では事あるごとに印地打ちが行われていました。

 

たとえば、「吾妻鏡」には1266年(文永3)には数十人が比企谷山麓に集まって石を投げ合い、ついには武具をつけて争闘をおこしたことから禁止指令があった…とあり、また「後愚昧記」という史料には、1369年(応安2)に、雑人などが京の一条大路で合戦し、死亡者が45人に及んだ、と記されていて、その合戦に「俗是ヲ伊牟地ト称ス」と注釈がついています。

 

室町時代には5月5日の端午の節供や小正月の男児の行事として流行し、児童が集まって小石を投 げ合い、また切り合いの合戦のまねをするという尚武的遊戯になりましたが、しばしば大人が加わって集団的に戦闘さながらに演じられたこともあり、これも危険を伴うので寛永年間(1624〜1645年)には全国的な禁令の対象となりました。

 

その後は、延享年間(1744〜1747年)のころからのちは、端午の菖蒲刀を弄ぶ菖蒲切に変わり、これを印地打ちとよぶ地方もあるそうです。

 

 

なお、この印地打ちですが、遊戯としてだけではなく、実戦でも使われていたらしいです。

「平家物語」や「源平盛衰記」 には「向へ礫(つぶて)いんぢ」とか「「向飛礫(むかいつぶて)の印地冠者」などと書かれており、石合戦の得意な「いんぢ」 と称する無頼の徒がときに烏合の兵力に用いられたこともあったことが 知られています。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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