5月25日 <日本初の列車食堂運行開始!(1889年=明治32)>

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1889年(明治32)のこの日、日本初の列車食堂が運行を開始しました。

これは明治時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

1889年(明治32)5月25日、私鉄の山陽鉄道に食堂車を連結した列車が走り始めました。京都〜三田尻(現・防府)間の列車に連結した食堂付1等車というものでした。

 

これは、公認された初の列車食堂で、西洋式の料理は始発駅神戸の自由亭ホテル(みかどホテル)が担当して営業を行いました。

 

こうしたサービスが導入された背景は、船旅を営業している瀬戸内海航路に対抗する目的があったからです。そこで、1等車に乗る乗客(上客)の対するサービス向上のために1等車に食堂を附属施設として付加したのでした。

 

ちなみに、この私鉄の山陽鉄道は1906年(明治39)3月31 日に公布された鉄道国有法により同年12月1日国有化され、国鉄山陽本線となりました。

 

一方、官営鉄道では、それから2年後の1891年(明治34)12月15日から新橋〜神戸間に2往復走った急行列車に28席の洋式食堂車を連結したのが最初でした。こちらは「精養軒」が営業を担当しました。

 

当時の食堂車は1等及び2等車の乗客しか利用が出来ませんでした。Wikipediaにはその理由について以下の様に説明されています。

 

  • 利用者層の日常的な生活習慣などを考慮したため
  • 3等車の客には当時行儀の悪い者が多かったため1・2等客に不愉快な気持ちを抱かせないように、と配慮したため
  • あるいは本来の座席より良い車両で漫然と時間を過ごすことを防止するため

 

こうした待遇面での差別は、そののち緩和されていきます。以下にWikipediaの記述を引用します。

その後、1903年10月から山陽鉄道では閑散時間帯には3等客への部分開放を行ったが、3等車から1・2等車内を通って食堂車へ来るのは禁じられ駅に停車しているときに車両の外を移動することと身なりを整えることが求められたという。鉄道院でも、1919年8月から「一部食堂車に改造を加えあるいはその連結位置を変更」して列車全体の旅客に開放した[48]。食堂車を挟んで1・2等車と3等車を分ける施策は、戦後の初期(1950年代)まで続けられた。

(Wikipedia「食堂車」から引用)

 

小生は、食堂車の利用経験は殆どありません。小学生の頃(今から45年も前の話ですね…)新幹線で関西の生家に遊びに行くときに使った位です。カレーが確かボンカレーでね…食堂車の入り口側に速度計が付いているんですよ。時速200kmを延々と指して居るんですわ。今は、自分が自動車でその速度で走ることもあるので、時代は変わった…ワケですねぇ。

 

もう一つ、食堂車に関することで記憶に残っていることがらがあります。作曲家の中田喜直氏が

「鉄道の食堂車は絶対に利用しない…」

と仰しゃられていたんですよ。その理由は、中田氏がタバコを毛嫌いされていたことに由来します。

どうも、食堂車で洗われた食器や灰皿が同じ布巾で湿り気を除去されていたことに嫌悪感を感じられたそうなんです。まぁ、非常にもっともな言い分であったので、この話が未だに記憶に残っているんです。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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