のこの日、
これは時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
1861年(文久元)の今日、尊皇攘夷派の水戸藩士14人が、江戸高輪の東禅寺に置かれていた英国仮公使館を襲撃しました。
2.解説
その前年1860年(万延元)の桜田門外の変以来、幕府は水戸藩に干渉して尊攘派の抑制を命じていたこともあり、尊攘派は攘夷に活路を開こうとしていました。
1861年(文久元)5月23日ごろから尊皇攘夷派の水戸藩士有賀半弥ら14名が数手に分かれて水戸を脱出し、南品川宿の旅籠(はたご)虎屋などに分宿し、同月28日夜両国の川開きの雑踏にまぎれて高輪の泉岳寺に集合し、東禅寺に置かれていた英国仮公使館を襲撃した。
英国公使のオールコックが香港からの帰途に兵庫から陸路帰還を強行したことを「夷狄に神州日本が穢された」と憤激したもので、オールコックはその前日に公使館に帰着したばかりでした。
その当時、幕府の外国御用出役と郡山・西尾両藩兵合わせて約200名が警備していましたが、公使の要求で構外に屯成していたため警備の機を逸し、水戸藩士らは、乗馬用鞭で応戦した書記官L.オリファントとピストルを発射した長崎領事G.モリソンとに対して斬りつけました。
その後、境内で水戸藩士と警備兵の乱闘となり、有賀・古川主馬之介・小堀寅吉が闘死し、榊鉞三郎は傷ついて捕えられ、警備兵に死者3名、負傷者十数名が出ました。
そのほか逃亡した石井金四郎・山崎信之介・中村貞介は虎屋て自刃し、石井は傷ついて捕えられました。
幕府・水戸藩の探索で浪士は自刃、あるいは逮捕されましたが、黒沢五郎・高畠房次郎は坂下門外の変に、岡見留次郎は天謀組の乱に参加しました。
明治時代まで生き延びたのは襲撃に参加せず、逃走・捕縛後に明治維新により特赦された堀江芳之助のみでした。
この模様は、通訳官として居合わせた画家のワーグマンが床下に潜りこんで目撃したという絵に描かれています。(その絵がWikipedia「東禅寺事件」にありましたので無断拝借してきました)。画像したの「第一次東禅寺事件の様子」の文字(このリンクからでもOKです)をクリックするとWikipediaの大きな画像が見られます。
オールコックは警備兵の奮闘と幕府の犯人追捕に満足し、幕府は、翌1862年(文久2)2月16日に負傷した2人の館員に1万ドルの賠償金を支払うことを約し、また各国の公使館の建設を認めてこの事件を処理しました。
2.他の年、この日の記事
他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。
今日はここまでです。
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