1933年(昭和8)のこの日、中国の熱河・河北省で戦闘していた日中両国は、塘沽(タンクー)で関東軍代表岡村寧次(おかむらやすじ)少将と中国軍代表熊斌(ゆうひん)との間で停戦協定を結びました。
これは昭和時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
1931年(昭和6)9月、奉天(現・瀋陽)郊外の柳条湖で満鉄線路爆破事件(柳条湖事件)が発生すると、関東軍はこれを中国側のテロ行為と発表し、すぐさま軍事行動を起こし、奉天・長春といった南満州の主要都市を占領しました。これは満州事変と呼ばれる出来事です。
朝鮮に駐屯していた日本軍の一部も独断で鴨緑江を渡って満州に入り、関東軍の支援に加わりました。
これに対して、日本の若槻内閣はこの軍事行動の不拡大方針を声明しましたが、関東軍はこれを無視してなおも戦線を拡大しました。
関東軍は満州事変勃発直後から、張学良政権を排除したのち、満蒙に新政権を樹立して中国国民政府から切り離し、日本の意のままに操れる「独立国」を樹立する計画を進めました。
翌1932年(昭和7)2月までに東三省(黒竜江・吉林・奉天)の要地を占領し、同年3月には清朝最後の皇帝であった溥儀(ふぎ)を執政として「満州国」の建国を宣言させ、その支配権を掌握しました。
関東軍は1933年(昭和8)3月に熱河省を占領、同年4月には長城線を越えてさらに南下を企てました。
これを見た北平政務整理委員会の黄郛は密かに停戦協定を進め、1933年(昭和8)のこの日、河北省塘沽に於いて、軍事委員会分会の熊斌中将と岡村寧次関東軍参謀副長との間で、日本の要求通りの停戦協定が調印・締結されました。
その内容は以下のようなものでした。
- 中国陸軍は延慶・通州・蘆台を結ぶ線以西および以南に撤退する
- 日本軍は長城線に復帰する
- 両軍間は非武装化する
- 撤兵地域の治安維持は中国警察が担当する
- 本協定は調印とともに効力を発生する
これで、最初に占領した東三省(黒竜江・吉林・奉天)に熱河・興安省を加えた五省からなる満州国の国境が最終的に確定し、満州事変はひとまず集結しました。
しかしながら、長城以南に非武装地帯が設けられたことで、日本は華北侵略への足がかりを得ることにもなったのでした。
2.他の年、この日の記事
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