1919年(大正8)のこの日、学生を中心とした数千人規模の大規模なデモが起こり、北京では天安門広場を起点とし行進を行い、一部が暴徒化しました。
これは大正時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
第1次世界大戦は、1918年(大正7)11月にドイツ帝政が倒れ、ドイツ側の敗北によって終わりを告げました。
1919年(大正8)1月から、パリで対独講和会議(パリ講和会議)が開かれ、日本は西園寺公望(さいおんじきんもち。主席全権)・牧野伸顕(まきののぶあき)ら5人の全権を中心とする代表団を派遣しました。
会議は、イギリス・アメリカ・フランス・イタリア、そして日本の5大国、とりわけ英米仏の3大国の主導で進められ、同年6月にヴェルサイユ条約が締結されました。ドイツはこの条約で
- 国土の一部とすべての海外植民地とを失った
- 巨額の賠償金支払い義務を負わされた
- 空軍の保有を禁止され、陸海軍も大幅な軍備制限を受けた
といった条件を飲まされました。
日本は、第1次世界大戦勃発後、ドイツから山東省や赤道以北の南洋諸島などを奪いましたが、このパリ講和会議において、山東半島の領土権を中国に返還することを承認したものの、ドイツが持っていた山東省の権益を引き継ぐ事を認めさせ、赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島を国際連盟から委託統治することになりました。
日本が、山東省の旧ドイツ権益を継承したことに対して、中国では激しい反対運動が起こりました。1919年(大正8)5月4日、北京では天安門広場を起点とし、学生を中心として数千人規模の大規模なデモが起こり、ヴェルサイユ条約調印反対、「打倒日本帝国主義」の声が強まり、日本商品びボイコット(日貨排斥:にっかはいせき)が中国で全国的に広まりました。これがいわゆる五・四運動です。
こうした国内の反対のため、中国代表は、結局、ヴェルサイユ条約には調印しませんでした。
2.他の年、この日の記事
他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。
今日はここまでです。
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