1615年(慶長20)閏6月のこの日、江戸幕府は一国一城令を布告しました。
これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
大阪夏の陣で豊臣氏を滅ぼした江戸幕府は、1615年(慶長20)閏6月13日、
「貴殿御分国中居城をば被残置、其外之城者悉可有破却之旨上意候」
とか
「一国一城之外破却候様にと被仰出候」
といって、領内の居城以外の城はすべて破却せよ…と諸大名に命じました。
これがいわゆる一国一城令です。
この場合の一国とは、一藩領内のことで、たとえば長州藩であれば、長門(ながと)国の萩城は残して周防(すおう)国の岩国城は破却することになったのでした。(しかしながら、幕府は「毛利家は周防国、長門国の二国だから周防国の岩国城まで破却する必要はなかった筈」という見解だったようで、毛利家は潰す必要のない城まで先走って破却した…というのが真実だそうです。)
こうして数日のうちに400ほどの城がこわされましたが、この対象となったのは畿内・山陽・山陰・南海・西海、すなわち西日本だけだったようで、東日本にはほとんど適用されませんでした。これは、奥羽地方では豊臣秀吉が平定した際に、すでに城郭を破却させたという事情もありますが、主としては外様大名を規制することが狙いでした。
幕府はこの一国一城令もあとも、武家諸法度で居城以外に新しく城を築くことを禁止して一国一城令の方針を堅持しつつ、さらに居城といえども無断で修築を加えることも禁じました。実際に、この武家諸法度の禁止事項に触れて、1619年(元和5)には福島正則が改易を命ぜられています。
こうして、幕府に対抗する軍事的拠点となる要素を取り除かせ、江戸幕府の目的は達成されましたが、効果はそれだけではありませんでした。諸大名にとっても、領内の支城を拠点にして大名と対抗できるような有力武士を弱体化させる効果がありました。
大名の家臣たる武士たちは、この一国一城令のあと城下町へ集住するようになっていったのでした。
2.他の年、この日の記事
他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。
今日はここまでです。
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