645年(大化元)のこの日、孝徳天皇と中大兄皇子とは群臣らとともに新たな政権の発足を宣言し、そして「大化」とはじめて元号を定めました。
これは飛鳥時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
その当時、倭国の政権を牛耳っていたのは蘇我氏でした。
蘇我氏(そがうじ)は、大和南西部に基盤をもち、5世紀頃に大王家の外戚となっていた葛城氏の分家でした。大和国高市郡曽我、ついで大和国高市郡飛鳥地方に進出し、稲目(そがのいなめ)の代に蘇我氏として分立したのでした。
6世の欽明朝に、分裂していた王権の収拾にあたり、欽明王権を支持することによって大臣(おおおみ)となり、その欽明天皇に2人の娘、堅塩媛(かたしおひめ)と小姉君(おあねのきみ)とを妃として入れました。その結果、用明・崇峻・推古天皇をはじめとする多くの皇子・皇女の外戚となることにより、その権力を強固なものとしました。
稲目の子の馬子は用明天皇、ついで崇峻天皇と次々と蘇我氏出身の妃が生んだ皇子を即位させ、権力の集中を図りました。ところが崇峻天皇は、馬子の権勢を嫌っていたので、何と馬子は東漢駒(やまとのあやのこま)に崇峻天皇を殺害させ、そして初の女性天皇である推古天皇を即位させたのです。
その推古朝には、教科書上のネーミングが厩戸王から聖徳太子にもどる…という聖徳太子が政権に参画しています。
馬子の子蘇我蝦夷(そがのえみし)も、大臣として権力をふるっていましたが、その子入鹿(いるか)は、父をしのぐ実権を掌握していました。
しかしながら、唐から帰国した留学生、あるいは学問僧から最新の統治技術を学んだ者のなかには、蘇我氏への権力集中をこのまず、国家体制を整備し、そのなかに諸豪族を組み込むことにより官僚制的な中央集権国家を打ち立てようとする動きが起こったのです。
中臣鎌足(なかとみのかまたり、後の藤原鎌足)と中大兄皇子(後の天智天皇)は645年(皇極天皇4)6月12日、飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)で蘇我入鹿を謀殺し、その遺体を蝦夷のもとにとどけ、翌13日、蝦夷は自ら世を去ったのでした。この出来事は乙巳の変(いっしのへん)と呼ばれ、これにより蘇我氏本宗家は滅亡しました。
そして、皇極天皇が退位し孝徳天皇の即位にともない、645年(大化元)のこの日、はじめて元号が「大化」と制定されました。
『日本書紀』には次のような記述があります。
「天豊財重日足姫天皇の四年を改めて大化元年とす」
この大化という元号は出典不祥です。
「漢書」の循吏(じゅんし)伝に
「為民興利除害成大化」
とあり、徳教をもって人心を善い方向へ導く、あるいは広大な徳化という意味だそうです。
ちなみに、この大化のあと、元号には断絶がありましたが、701年の大宝以後は連続して現在の平成に至っています。
明治改元以降は一世一元の制が定められ、践祚にともなう改元に限定されましたが、それ以前は祥瑞・災異・三革(辛酉・甲子・戊辰の年)など様々な理由で頻繁に改元されていました。
2.他の年、この日の記事
他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。
昨年は記事作成をサボっており、この項は無しです。
今日はここまでです。
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