1730年(亨保15)のこの日の午後、京都上立売室町西入ルの大文字屋五兵衛宅から出火し、翌21日までに108町、3,798家屋、71寺社を焼く大火が発生しました。被災地は西陣を中心とした地域であったことから、この大火は「西陣焼け」と呼ばれました。
これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
京都に西陣と呼ばれる地域があります。
上京区の堀川通以西、千本通以東、一条通以北、寺之内通以南の地域です。実は、この記事を書いている小生は、こうした地名を見てもどの場所であるか見当が付かず、地図と睨めっこしながらようやくわかる、といった状態なんです。
この西陣という名は、応仁の乱の際、西軍の山名宗全が当地に陣を置いたことに由来し、「蔭涼軒日録」の1487年(文明19)正月ニ四日条に「西陣」という地名がのこされていることより、その当時からすでにこの地名があった事が判ります。
西陣と言えば…金襴緞子(きんらんどんす)を思い浮かべるのは余りにもベタな発想ですが、その京都の機織業は西陣という地名が史料に残るよりずっと前から、なんと律令時代の織部司(おりべのつかさ)から始まります。中世になりますと、織部司は衰退し、それにかわって内蔵寮(くらりょう)所属の御綾織手(ごりょうおりて)など、いくつかの織手の集団が出現してきました。
その中から成長を遂げたのが公家の万里小路(までのこうじ)家に属し、のちの西陣の地を拠点に活動した大舎人座(おおとねりざ)でした。
応仁の乱の際、大舎人座はいったん堺に疎開したものの、その後、再びこの地にもどって高級絹織物業の生産を再開し、皇室や室町幕府の庇護を受けて、後の西陣機織業の基礎を築きました。
江戸時代にも、西陣は中国から輸入される原料の白糸の確保などに幕府の保護を受け、全国の絹織物業の拠点として大発展しました。
ところが、1730年(亨保15)のこの日の昼過ぎ、上京上立売室町西入町から出火、北東のち北からの強風にあおられた火事は西陣地域に広がり、上西陣組、下西陣組、小川組、北野にまたがる地域を焼き尽くしてしまいました。焼失した134町のうち108町は西陣組で、
焼失家屋:3,798軒
焼失寺社:71ヶ所
負傷者:千数百人
という甚大な被害を出したこの火事により、京都の西陣機業は、高機7,000余のうち3,000以上を焼失する打撃を受けました。
この火事は、その被害が大きかった西陣にちなんで「西陣焼け」と呼ばれています。
そして、この火事によって職を失った織方が、全国の機業地に流れ、丹後・長浜・桐生といった各地に西陣の高級機織物技術が伝搬されていきました。こうした田舎絹との競争に悩まされつつも、復興を見せた西陣の機織業でしたが、1830〜44年の天保年間における飢饉や株仲間の解散、幕末期における生糸輸出の激増を背景とする原料の入手難などにより明治初期には衰退してしまいました。
その後、京都府の助成に支えられて伝統産業として西陣織は息を吹き返し、現在に至っています。
2.他の年、この日の記事
他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。
昨年は記事作成をサボっており、この項は無しです。
今日はここまでです。
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