のこの日、
これは時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
彩ちゃんと黒猫のPinotとが、今日の記事について話していますよ・
Pinotは物知りですね。
補足しておきましょう。
江戸時代も第3代将軍徳川家光が没し、長子徳川家綱が11歳で第4代将軍になる1651年(慶安4)ころには国内外が安定し、平和な時期が訪れました。
そうした、平和で、社会秩序が安定した状態になっても、まだまだ心のなかに戦国時代の価値観が残っている人達がいました。死を恐れず、戦場で武功を上げてステップアップする…という道が閉ざされた旗本や牢人たちは、秩序に抗い、乱暴狼藉を働き、満たされぬ思いを社会で発散させようとしたのです。彼らはかぶき者と呼ばれ、その風潮は武士でけではなく町人にも及んで行きました。
このかぶき者の「かぶく」という言葉は「傾く」に由来していて、斜めになること、すなわちフツーじゃない、異形、異装などの通常とは異なる行動をとることを指しています。今回の記事のころのかぶき者としては、旗本水野十郎左衛門成之らの旗本・御家人や奉公人の「旗本奴」がいて、町人の幡随院長兵衛らの「町奴」がこれに対抗する勢力でした。
Wikipediaにあった幡随院長兵衛の絵です。歌川国芳が描いたものです。
幡随院長兵衛といえば、歌舞伎や講談でもおなじみの町奴ですが、六尺豊かな巨漢で、江戸上野池之端にあった幡随院の門前町に住み、子分百数十人を抱える大親分でした。上記の旗本奴の水野十郎左衛門との確執は相当に激しかったそうです。
1657年(明暦3)のこの日、幡随院長兵衛は水野十郎左衛門の屋敷で無礼のかどで手打ちにされました。
十郎左衛門の報告によると、屋敷を訪れた長兵衛が吉原遊びを誘ったところ、それを十郎左衛門が断ったのだそうです。すると、長兵衛が
「われわれが怖くて来られないのだろう…」
といって侮辱し、暴言を吐いたので無礼討ちにした、のだそうです。
長兵衛、享年36歳でした。十郎左衛門は武士であったためお咎めなしでした。
もっとも、この旗本の水野十郎左衛門成之ですが、今回の記事の7年後の1664年(寛文4)、異形の風体で登城したため切腹させられています。
2.他の年、この日の記事
他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。
昨年は記事作成をサボっており、この項は無しです。
今日はここまでです。
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