7月20日 <「吾妻鑑」最後の記事を作成(1266年=文永3)>

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1266年(文永3)のこの日、鎌倉時代の歴史書「吾妻鑑」に鎌倉幕府第6代将軍宗尊親王の京都送還の記事が記されました。吾妻鑑の記事はこの日をもって終了しています。

これは鎌倉時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

吾妻鑑は、近世以降は東鑑とも書かれることがある鎌倉幕府の歴史を編年体で日記の様に綴った歴史書で、1180年(治承4)の源頼政の挙兵からその記述が始まっています。そして、1266年(文永3)のこの日の宗尊親王の京都送還についての記述が最後の記事です。

この吾妻鏡、北条氏の全盛時代に北条氏の立場から書かれた編纂物ではあるので、その北条氏の権勢を正当化するための脚色もあり、史料的な限界があることを否めませんが、鎌倉時代の政治や武家社会の様子を知るためには必要不可欠な書物です。

 

この吾妻鑑は、完成した書物なのか、それとも未完のものであるのか不明なのです。

源氏三代の頃の記述形式と、摂家将軍・宗尊親王の頃のそれとが著しく異なっていることから成立時期について以下の諸説があります。

  • 14世紀初頭成立説
  • 源氏三代の前半部を文永年間、その後の三代を14世紀初頭とする二段階成立説

 

また完本として残っているものはなく

  • 吉川本:大内氏の武将石田弘詮が20年にわたって諸本を収集して復元したもの
  • 北条本:1404年(応永9)に金沢文庫本から書写したことを本の奥書に記す北条家伝来のもの
  • 島津本:二階堂氏伝来のもの

などが伝わっています。

こうしたものだけでなく、室町時代以降吾妻鏡から抄出した記録なども多く、

  • 山密往来:元暦年間の記録を抄出した前田本
  • 文治以来記録:1187年(文治3)から1226年(嘉禄2)までの記録を抄出したもの

近世でも、北条本を底本とした寛永版本や、その不足分を島津家本から補った「吾妻鏡脱漏」が出版され、明治中期までの流布本となりました。明治に入ると、黒坂勝美が北条本を底本として諸本と校合した国史大系本を編んでいます。

その国史大系本の前・後編は以下の2冊です。


新訂増補 國史大系〈第32卷〉吾妻鏡(前篇)


新訂増補 國史大系〈第33卷〉吾妻鏡(後篇)

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

昨年は記事作成をサボっており、この項は無しです。

 

今日はここまでです。

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