9月15日 <関ヶ原の戦い、その1(1600年=慶長5)>

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1600年(慶長5)のこの日、美濃の関ヶ原で、豊臣秀吉没後の覇権を争う天下分け目の戦いと言われる関ヶ原の戦いが行われました。

これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

この日の美濃の関が原は、前夜来の雨が、大雨から小雨に変わっていました。明け方、東軍の先鋒が関が原に到着しました。やがて、徳川家康は、桃配山(ももくばりやま)に本陣を構えると、麾下(きか)を本陣北側の中仙道に配し、主力をその前面に出して、西方の敵に対峙させました。

 

これと一里(約4km)ばかり離れて天満山にはすでに宇喜多秀家(うきたひでいえ)がいました、西軍はこの宇喜多勢を中心に、北方の笹尾山に石田三成(いしだみつなり)、その南に島津義弘(しまづよしひろ)・小西行長(こにしゆきなが)、そして南方の松尾山には小早川秀秋(こばやかわひであき)が陣していました。また、桃配山の東南、峰続きの南営山には毛利秀元(もうりひでもと)、その北には吉川広家(きつかわひろいえ)、さらに後方には長束正家(なつかまさいえ)・安国寺恵瓊(あんこくじえけい)・長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)が控えていました。

 

小雨がやむと、霧が深くなってきました。五十間(約90m)先が見えず、霧が上がって百間、百五十間先が見えたかと思うと、また霧が下りてくるという天気でした。そして午前7時過ぎ、まだ霧が立ちこめるなかで、火器による攻め合いが開始されたのです。

 

まず、東軍の井伊直政(いいなおまさ)・福島正則(ふくしままさのり)が宇喜多の前衛明石掃部(あかしかもん)と衝突しました。当初の兵力は東軍が74,000,西軍が84,000といわれ、戦局も一進一退ながら、わずかに西軍が押し気味でした。しかし、昼過ぎから形勢が一転したのです。ひそかに東軍にも心を寄せていた小早川秀秋が、家康からの火器による一斉射撃を陣営に浴びて意を決して内応し、山を下って西軍に襲いかかったのでした。山下にはこのような事態を察して西軍の大谷吉継(おおたによしつぐ)が備えていましたが撃破され、あとはなだれを打ったような西軍の大敗でした。

 

世に関ヶ原の戦いを「天下分け目」の代名詞と表現しますが、豊臣秀吉没後の政権の主導権を争う性格を持っていました。この戦いを機に、徳川家康は圧倒的な実力者として君臨していくのでした。この関ヶ原の戦いの戦後処理では、家康の意図に基づく大名配置が行われ、磐石の礎を築いたのでした。

 

この関ヶ原の戦いに関しては、一回でまとめきれる内容でもないので、また来年にその関連事項について記述をする予定です。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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