9月 出来事

9月15日 <関ヶ原の戦い(1600年=慶長5)>

2016/10/12

今日という日はどんな日でしょうか?

日本史の世界の出来事を覗いてみましょう。

 

この日の美濃の関が原は、前夜来の雨が、大雨から小雨に変わっていました。明け方、東軍の先鋒が関が原に到着しました。やがて、徳川家康は、桃配山(ももくばりやま)に本陣を構えると、麾下(きか)を本陣北側の中仙道に配し、主力をその前面に出して、西方の敵に対峙させました。

 

これと一里(約4km)ばかり離れて天満山にはすでに宇喜多秀家(うきたひでいえ)がいました、西軍はこの宇喜多勢を中心に、北方の笹尾山に石田三成(いしだみつなり)、その南に島津義弘(しまづよしひろ)・小西行長(こにしゆきなが)、そして南方の松尾山には小早川秀秋(こばやかわひであき)が陣していました。また、桃配山の東南、峰続きの南営山には毛利秀元(もうりひでもと)、その北には吉川広家(きつかわひろいえ)、さらに後方には長束正家(なつかまさいえ)・安国寺恵瓊(あんこくじえけい)・長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)が控えていました。

 

小雨がやむと、霧が深くなってきました。五十間(約90m)先が見えず、霧が上がって百間、百五十間先が見えたかと思うと、また霧が下りてくるという天気でした。そして午前7時過ぎ、まだ霧が立ちこめるなかで、火器による攻め合いが開始されたのです。

 

まず、東軍の井伊直政(いいなおまさ)・福島正則(ふくしままさのり)が宇喜多の前衛明石掃部(あかしかもん)と衝突しました。当初の兵力は東軍が74,000,西軍が84,000といわれ、戦局も一進一退ながら、わずかに西軍が押し気味でした。しかし、昼過ぎから形勢が一転したのです。ひそかに東軍にも心を寄せていた小早川秀秋が、家康からの火器による一斉射撃を陣営に浴びて意を決して内応し、山を下って西軍に襲いかかったのでした。山下にはこのような事態を察して西軍の大谷吉継(おおたによしつぐ)が備えていましたが撃破され、あとはなだれを打ったような西軍の大敗でした。

 

世に関ヶ原の戦いを「天下分け目」の代名詞と表現しますが、豊臣秀吉没後の政権の主導権を争う性格を持っていました。この戦いを機に、徳川家康は圧倒的な実力者として君臨していくのでした。この関ヶ原の戦いの戦後処理では、家康の意図に基づく大名配置が行われ、磐石の礎を築いたのでした。

 

この関ヶ原の戦いに関しては、一回でまとめきれる内容でもないので、また来年にその関連事項について記述をする予定です。

 

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