1789年(寛政元)のこの日、江戸幕府は、旗本に金融を行っていた札差(ふださし)に対して、1784年(天明4)以前の債権は棄捐(きえん)、それ以降のものは年賦返済とすることを命じました。
これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
彩ちゃんと黒猫のPinotとが、今日の記事について話していますよ・
Pinotはなんでも良く知っていますねぇ。
さて、棄捐令は旗本・御家人層に対する札差の債権を破棄または軽減する目的で、1789年(寛政元)のこの日に出した法令です。
札差(蔵宿とも)というのは、江戸時代に幕府の御米蔵がある浅草御蔵前あたりに店舗を構えて、旗本・御家人の代理人として蔵米(扶持米)を受け取り、それを売却して手数料を得た商人のことです。それが後には、蔵米を担保として金融も行いました。
この札差、上にも書きましたように、旗本・御家人層に蔵米を担保とした高利貸を営み、天明期には債権を増大させていました。
1787年(天明7)6月に松平定信が老中に就任し、その後行われた寛政の改革では、米価・物価変動のなかで困窮した旗本・御家人層の救済が課題となりました。そこで、幕府は
- 1784年(天明4)以前の債権は無条件に廃棄(棄捐)
- 1785年(天明5)以降の債権については18%であった年利を6%に下げて年賦償還
- 1789年(寛政元)以降の債権は年利12%とする
などの内容の棄捐令を発布したのです。
これは、事実上債権の踏み倒しであったので、多額の借金を抱えた旗本のなかには、
これは夢ではないか!
と小躍りする者がでるほどだったそうです。この時の棄捐の対象となったのは118万両にものぼって、札差は大打撃を受けたのでした。幕府は猿屋町貸金会所を新設し、打撃を受けた札差に対して無利息または低利の公金貸下げを実施し、札差の金融を幕府の統制下に置いたのでした。
2.他の年、この日の記事
他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。
今日はここまでです。
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