今日という日はどんな日でしょうか?
日本史の中の出来事を覗いてみましょう。
1739年(元文4)の今日、尾張国名古屋藩主の徳川宗春(とくがわむねはる)は、江戸幕府第8代将軍の徳川吉宗から隠居謹慎を命じられました。
さて、この徳川宗春はどんなことをやらかしたのでしょうか?
宗春は、同藩の3代藩主徳川綱誠の第20子として、1696年(元禄9)10月に名古屋で誕生しました。母は、三浦太次兵衛の女です。1729年(享保14)には、奥州陸奥国梁川3万石を賜りますが、その翌1730年(亨保15)に兄の徳川継友の急死により尾張家を遺領相続しました。
自由奔放を好み、遊郭や芝居小屋を開き、商工業を振興し、さらには祭礼の隆盛を奨励するなどして名古屋を豪華な大都会へと成長させました。また、法には寛大で、死刑を行わず、罪人を入牢のまま放置しました。そうした政策は、緊縮・尚武・法治の政策を進める将軍徳川吉宗の政策とは真っ向から対立するものでした。その対立が、1739年(元文4)の退隠を命じられる原因となったのでした。
この退隠を命じられた後には、金一万八千両余、米三万六千石余の財政赤字が残った、という記録があります。
そうして宗春は、隠居後名古屋で幽閉の生活を続け、1764年(明和元)10月に世を去ります。享年69歳でした。
ところが、話はここで終わるワケではありません。亡くなったあとも罪人として扱われ、1839年(天保10)に幕府が罪を赦すまで墓碑は金網て覆われていたそうです。
1731年(享保16)に尾張藩に入国する際、宗春は「温知政要」を著しています。そこには、藩主としての自戒、施政方針と藩士日常の心得とが説かれています。
内容的には宗春独自の考えを21カ条にまとめています。そこには
- 法令の頻発による逆効果の指摘
- 度を越えた険約と下情に通じすぎへの批判
- 土地繁盛の積極策
- 庶民への「慈忍」
など、享保の改革路線への対決を含み、保守的な将軍徳川吉宗の反発をかいました。本書は絶版となり頒布拝領をした者も提出し破棄させられましたが、抹殺を免れたものがわずかに残っているそうです。
幕府にとっては面白くない内容ではありましたが、広く世間に注目され、発刊の9ヵ月後には京都の儒者中村三近子が
「たとひ千金をのべたる物にても、人間一人の命にかへがたしとの御詞は(中略) 一入有難く、比所は感涙頻也」
として評論註釈書「温知政要補翼」をつくっています。
そうした宗春の考えも、お上に逆らって推し進めることはできませんでした。
今日はここまでです。
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