1月14日 <京都帝国大学で沢柳事件発生(1914年=大正3)>

スポンサーリンク

104年前のこの日、京都帝国大学総長の沢柳政太郎総長と同大学法科大学の教授団との間で生じた紛争がもとで教授全員が辞表を提出するという沢柳事件が起きました。

これは大正時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
広告


スポンサーリンク
スポンサーリンク

1.解説

 

この沢柳事件、別名「京大事件」ともよばれる、大学の総長(学長)と法科大学(法学部)の教授団との紛争は、1913年(大正2)〜14年(大正3)にかけて起こったものです。

 

事の発端は、1913年(大正2)7月に総長・沢柳は学内刷新を唱えて各分科大学7教官の辞職を要求し、翌月発令しました。免官の対象となったのは以下の7教官です。

  • 天谷千松(医科大学)
  • 吉田彦六郎(理工科大学)
  • 横堀治三郎(理工科大学)
  • 三輪恒一郎(理工科大学)
  • 村岡範為馳(理工科大学)
  • 吉川亀次郎(理工科大学)
  • 谷本富(文科大学)

法科大学を中心とする教授団は、

 

「教官任免には教授会の同意が必要…」

 

と主張したのに対し、沢柳総長は

 

「教授の地位を保つのはその実であって制度的保障はなく、また現行制度においても教授の任免に教授会の同意は不要」

 

と反論し、学生を巻き込んだ抗争事件に発展しました。

 

そして、総長と法科大学教授団の対立は激化し、1914年(大正3)のこの日、法科教授・助教授は抗議のために連帯辞職したのでした。

 

同月23日、文相奥田義人は

 

「教授ノ任免ニ付テハ総長カ職権ノ運用上教授会ト協定スルハ差支ナク且ツ妥当ナリ」

 

と法科大学教授団の主張を認め、これを受け、教官は辞職を撤回し、さらに同年4月、沢柳総長は引責辞任し、事件は収拾しました。

 

これ以降、教官任免に関し教授会の慣行的権限をを文相が承認したことで、大学の自治は大きく前進したのでした。

 

 

2.過去年の記事

過去には、こんな記事を書いていました。こちらも併せて御覧下さい。

 

今日はここまでです。

広告



こちらのリンクからは他の方のblogをご覧頂けます。日本史に関する様々な情報満載ですよ。一度だまされたと思ってポチッ!とな…とされては如何ですか?
↓↓↓
スポンサーリンク
スポンサーリンク
1月出来事
スポンサーリンク
シェアする
wpmasterをフォローする

コメント

Translate »
error: Content is protected !!