1月26日 <明治時代最大の火災「神田大火」発生(1881年=明治14)>

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137年前のこの日、東京神田松枝町から出火し、1万1000戸が焼失する明治時代最大の火災「神田大火」が起こりました。

これは明治時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

江戸時代、「火事と喧嘩は江戸の花」という言葉が在るくらい、幕府のあった江戸は頻繁に火事に見舞われました。

最初から脱線してしまいますが、この「火事と喧嘩は江戸の花」の意味を調べますと、辞書によって若干意味合いが違い興味深いですよ。

  • デジタル大辞泉:江戸は大火事が多くて火消しの働きぶりがはなばなしかったことと、江戸っ子は気が早いため派手な喧嘩が多かったことをいった言葉。
  • 大辞林 第三版:火消しの華やかな働きぶりと、 江戸っ子の喧嘩は威勢がよく、江戸の見物みものである。

 

江戸時代が終わり、明治時代になったから…といって火災が急になくなるワケではありません。

1872年(明治5)2月26日、和田倉門内の旧会津藩邸(現・皇居外苑)から出火した火災は、折からの強風に煽られ、銀座御堀端から築地にかけての丸の内、銀座、築地一帯など東京の中心地41ヵ町、4,879戸、95万400㎡を焼失させました。

東京の中心地が被災したこの「銀座大火」をきっかけに、政府は銀座を耐火構造の西洋風の街並みに改造することを計画しました。

東京府知事由利公正(ゆりきみまさ)の主導のもと、大蔵省雇の英国人技師トーマス・ウォートルスの設計により都市計画が策定されました。計画は、

  1. 火災を防ぎ延焼を阻止する方法として、街区を整理し道幅を広くする事
  2. 不燃建築により市街を建設する事

などが主なものでした。これに従い、銀座に27mの大通りや歩道を備えた、わが国初の煉瓦街が出現したのでした。

 

江戸時代、神田は大火のメッカでした。

「火事だ!」

といえば

「神田か!」

と返ってくるくらいだったそうですよ。

 

その火災発生頻度は本当に高く、江戸時代後期だけでも神田が火元となった大火は10回以上、明治時代にも焼失家屋1,000戸を超える大火は7件も発生したのです。

1881年(明治14)のこの日も、神田区松枝町から発生した火災は、北西からの強風に煽られて東神田一帯を焼き尽くし、日本橋馬喰町〜横山町、神田川沿いの元柳町、吉川町から両国橋を越えて本所、深川に及びました。この火災による被害は、神田、日本橋、本所、深川の4区52ヵ町に及び、全焼10,673戸、421,400㎡を焼失させ、被災者数36,542人に達し、明治期最大の大火となりました。

この大火は、火元の町名をとって「神田松枝町の大火」と一般に呼ばれました。

実は、この時期に神田では、他にも大きな火事が発生していましてね

  • 1880年(明治13)12月30日:神田、日本橋一帯の町家2,188戸、82,830㎡を焼失
  • 1881年(明治14)2月11日:神田、日本橋両区の48ヵ町、全焼7,751戸、291,482㎡を焼失

という具合に3ヶ月足らずの間に765,712㎡を焼失したのです。

 

この火災後に作成された都市計画では、水路の新設や民有地の買い上げによる道路拡張により市街の延焼を防ぐ策が講じられ、それとともに1881年(明治14)に発布された東京防火令によって東京の防火対策は大きく進み、1887年(明治20)以降は、こうした「大火」の発生は格段に減少したそうです。

 

2.過去年の記事

過去には、こんな記事を書いていました。こちらも併せて御覧下さい。

昨年も火事ネタだったのですねぇ。

今日はここまでです。

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