1月 出来事

1月4日 <源義朝、家人に裏切られ命を落とす(1160年=平治2)>

2018/01/06

858年前のこの日、平治の乱で平清盛に敗れた源義朝は、関東へ逃れる途中、家臣の長田忠致(おさだただむね)に入浴中を襲われて命を落としました。

これは平安時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

1156年(保元元)、鳥羽法皇が崩御されるとまもなく、かねて皇位継承をめぐり法皇と対立していた崇徳上皇が朝廷の実権を握ろうとして動きました。

上皇は摂関家の継承をめざして兄の藤原忠通(ふじわらのただみち)と争っていた左大臣藤原頼長(ふじわらのよりなが)らと結び、さらに源為義・平忠正らの武士を集めたのです。

これに対して、鳥羽法皇の立場を引き継いで朝廷の実権を握った後白河天皇は、近臣の藤原通憲(ふじわらのみちのり、信西とも)を参謀にして、清盛や源義朝らの武士を動員し、先制攻撃を仕掛けて上皇方を破りました。これを保元の乱といいます。

これまで京都を舞台にした合戦がなかったことから、この保元の乱は貴族に衝撃を与え、また武士が政争に使われたことで、時代の大きな転換を人々に印象づけることになりました。のちに延暦寺の天台座主となった摂関家出身の僧慈円は、その著書の「愚管抄」において、これ以後「武者(むさ)の世」になったと記しています。

 

保元の乱の後、政治の主導権を握った通憲は、平清盛の武力を背景にして、保元の新制と呼ばれる法令を出して、新たな基準を設けて荘園整理や悪僧・神人(じにん)の乱暴の取締りを行うなど、鳥羽院政の時代におこった社会の変動に対処した新たな政治を始めました。

 

やがて院政を始めた後白河上皇でしたが、その近臣間の対立が激しくなり、1159年(平治元)には、清盛と結ぶ通憲に反感をもった近臣の1人藤原信頼(ふじわらののぶより)が源義朝と結び、清盛が熊野詣に出かけている留守をねらって兵をあげ、通憲を自殺させました。しかし、武力にまさる清盛は、京都の六波羅邸に帰還すると、信頼らを滅ぼし、源義朝らの軍を破りました。これが平治の乱です。

 

源義朝は、関東で勢力挽回を図るために東海道を下っていき、尾張国野間(現・愛知県知多郡美浜町)で源氏譜代の家臣であった長田忠致(おさだただむね)と長田景致(おさだかげむね)親子を頼って身を寄せました。しかし、長田親子は、義朝の首に掛かっていた恩賞に目がくらんでいました。そして、1160年(平治2)のこの日、義朝は入浴中に襲撃を受けて殺害されてしまいました。京を脱出して3日後の事でした。

この入浴中に、長田親子に襲われたとするのは「平治物語」で、先述の「愚管抄」ではその部分の記述が些か異なります。「愚管抄」によれば長田父子の陰謀を察知した義朝が家臣の鎌田政清(かまたまさきよ)に自らの首を打つよう命じ、斬首したのちに政清は自害したと、なっています。

いずれにしても、源義朝と家臣の鎌田政清との首は清盛に届けられ、同年1月9日、京都市中にさらされました。

 

言い伝えによると、義朝は入浴中に襲撃を受けた際、その最期に、無念の胸中を次の様に叫んだとされています。

 

「我れに木太刀の一本なりともあれば…」

 

義朝の墓は、その最期を迎えた地の野間大坊の境内にあり、この言い伝えにちなんで多数の木刀が供えられているそうです。また、その野間大坊の境内には義朝の首を洗ったとされる池もあるのですよ。

 

 

2.過去年の記事

過去には、こんな記事を書いていました。こちらも併せて御覧下さい。

 

今日はここまでです。

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