711年(和銅4)のこの日、貨幣の流通を図るために「蓄銭叙位法(ちくせんじょいほう)」が制定されました。
これは奈良時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
小生が何十年か前に学校で日本史を習った頃は、日本最初の貨幣は708年(和銅元)に発行された和同開珎(わどうかいちん)である…と学習したものですが、7世紀後半に鋳造された富本銭(ふほんせん)という貨幣が出土した…という発見が1999年(平成11)にあり、そのニュースを聞き、最初の貨幣についての歴史が変わったのだな、と感じたものでした。
簡単に、日本の貨幣の始まりの頃についてご説明しておきましょう。
7世紀後半には、天武天皇の時代に唐の銅銭にならって富本銭が鋳造され、一部で利用されました。708年(和銅元)、武蔵国から銅が献上されると、朝廷は元号を和銅と改め、和同開珎を鋳造しました。その後も時々銅銭が鋳造され、10世紀半ばころの乾元大宝(けんげんたいほう)まで日本独自の貨幣が鋳造されました。この和同開珎から乾元大宝までの貨幣は本朝(皇朝)十二銭と呼ばれます。
この和同開珎に先行する富本銭は、683年(天武12)の詔にもその記述が残っており、奈良県明日香村の飛鳥山遺跡で鋳造された可能性が高い、とされています。701年(大宝元)に制定された大宝律に私鋳銭の罰則規定があること、規格が初唐期の開元通宝(かいげんつうほう)に近似していること、「富夲」の2字が五銖銭(ごしゅせん)再発行の故事に由来することなどから、富本銭は実質的な価値をもった貨幣と考えられています。しかしながら、この富本銭が流通して使われたか?については所々の説があるようです。
一方の和同開珎は、宮都造営費用の支払いなどに利用されていました。さらにその流通を図って、711年(和銅4)の今日、「蓄銭叙位法(ちくせんじょいほう)」が制定されました。同年12月には無位・白丁という位階に対する規定を追加しています。その規定は、以下の様なもので、一定額の銭貨を蓄えた者に対して、その銭貨を政府に納入するのと引き換えに位を昇進させることにしました。早い話が、売位政策です。この蓄銭叙位法は蓄銭叙位令とも呼ばれています。
位階
蓄銭額
処置
正六位以上
10貫以上
勅により決定
従六位〜八位大初位上
10貫以上の場合
位を1階昇進
従六位〜八位
20貫以上の場合
位を2階昇進
大初位上
10貫
従八位下に昇進
大初位下〜小初位下
5貫ごと
位を1階昇進
無位
7貫
小初位下に昇進
白丁
10貫
小初位下に昇進
このような法律を作ってはみましたが、畿内を中心とした地域を外れますと、稲や布などの現物貨幣による商売が広く行われていたため、銭貨の流通はあまり盛んにはなりませんでした。一説によれば、この蓄銭叙位法によって、銭貨が死蔵される結果を招いたともされています。結局、同法は800年(延暦19)に廃止されてしまいました。
実際の史料のうえでも、「続日本紀」によれば、同年(711年)11月条に、蓄銭人にはじめて位階を与えた、とあるのが、この法律の実施に関する唯一の記述です。従いまして、どの程度実施されたのかは不明です。
2.他の年、この日の記事
他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。
今日はここまでです。
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