10月29日 <藤枝外記の心中沙汰への処分決定(1785年=天明5)>

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232年前のこの日、旗本藤枝外記(ふじえだげき)の遊女との心中沙汰に対し、幕府が石高4,500石の没収など改易の処分を決定しました。

これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

藤枝外記(ふじえだげき)は、正式には藤枝教行(ふじえだのりなり)といい、江戸時代の大身旗本(たいしんはたもと)です。

この大身旗本いうのは、3,000石以上の寄合(旗本寄合席)、または2,000石以上の旗本で守名乗り(かみなのり)ができた者のことです。

ちなみに、あのテレビドラマや映画で人気を博した旗本退屈男こと早乙女主水之介(さおとめもんどのすけ)は1,200石ですから、この藤枝外記の4,500石というのは家禄としては大きかったのです。

 

この藤枝外記旗本の徳山貞明の八男として生まれ、1773年(安永2)に藤枝貞雄の養子になりました。

藤枝家というのは面白い歴史をもっていましてね、もともとは京都町人の弥市郎という人だったのです。ところが、その弥市郎の娘のお夏に江戸幕府第3代将軍徳川家光がお手つきをして懐妊したんですねぇ。1644年(正保元)生まれてきた子供は、のちの甲斐国甲府藩主となる徳川綱重でした。娘のお夏がその生母となったため、弥市郎は士分に取り立てられて岡部八左衛門重家と名乗ることになったのです。

そして、お夏が産んだこどもは甲府藩主となり、重家は綱重の家老となり藤枝重家と改名しました。この藤枝重家が、藤枝外記の家祖ということになります。

 

1680年(延宝8)に江戸幕府第5代将軍となった徳川綱吉は、甲府藩主の徳川綱重の弟です。この綱吉には子がなかったため、綱重の長男・綱豊が綱吉の養子となり、家宣と改名して1709年(宝永6)に第6代将軍となりました。

この綱重の子の徳川家宣が将軍に就任した際、甲府藩領は天領となり、家臣団は幕臣として吸収され、その時、藤枝家の子孫は幕府にて4,500石の大身旗本となったのです。藤枝家は何代かの間で町人から大身旗本へとものすごい変化があったワケです。

 

で、話を戻しますが

この藤枝外記は藤枝家の6代目なのです。

この外記、ひょんなことから、吉原の遊女綾絹(綾衣とも)と深い仲になってしまいました。外記27歳、綾絹19歳の燃えるような間柄です。

ところが、この綾絹の身柄を裕福な商人が身請けするという話が出た…或いは、吉原遊びが幕府の知れるところとなり甲府勤番支配に回されることとなりそうになった…など諸説ありますが、外記は綾絹に会えなくなると思いつめ、吉原から綾絹を連れ出し逃走してしまったのです。

しかし、追っ手に見つかり、どうしようもなくなった2人は、1785年(天明5)8月14日に心中してしまいました。

 

外記の妻と家臣とは、この心中したのが外記ではなく家人の辻団右衛門が死んだ…と偽り、その死を隠蔽しようとしましたが、やがて幕府役人に露見し、処罰されることに相成りました。

 

そして、1785年(天明5)のこの日、幕府の処罰が決まり、藤枝家は改易処分(身分を平民に落とし、家禄・屋敷を没収)とし、妻とその母本光院は縁者宅の一室に押し込め処分となりました。

 

この事件は箕輪心中の名で評判となり、次のような俗謡が遊里に流行したそうです。

「君とぬやるか(寝ようか)五千石とるかなんの五千石君とねよう」

 

この事件を題材にして、のちに岡本綺堂が「箕輪心中」を著しています。以下に、青空文庫で公開されている「箕輪心中」へのリンクを貼り付けておきますね。

岡本綺堂:「箕輪心中」

 

2.過去年の記事

過去には、こんな記事を書いていました。こちらも併せて御覧下さい。

今日はここまでです。

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