774年(宝亀5)のこの日、百済からの渡来人で東大寺大仏の造立や法華寺阿弥陀浄土院の造仏などに貢献した国中公麻呂(くになかのきみまろ)が没しました。
これは奈良時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
今日の記事は、国中公麻呂という奈良時代の技術系官人の話です。
もともとは百済に生活していた家の出身で、公麻呂の祖父の国骨富は徳率(とくそつ)という百済の官位で言えば上から4番目の、いわば高官でした。ところが663年(天智天皇2)の白村江の戦い後、百済が滅亡してしまった為、日本に帰化したのです。
最初は国公麻呂という名前でしたが、のちに大和国葛下郡国中村に居住し、国中連姓を賜りました。
746年(天平18)、東大寺の前身である金光明寺の造仏長官をつとめ、翌747年(天平19)に開始された東大寺盧遮那仏の造像と大仏殿建立の指揮を執るなどの功績が認められ、761年(天平宝字5)には造東大寺次官に任じられています。
その後、法華寺浄土院・香山薬師寺・石山寺の造営・造仏に参画するなど、仏師としてのキャリアを積んだ国中公麻呂でしたが、774年(宝亀5)のこの日、亡くなりました。生年不詳であるため、没年齢も判っていません。最終官位は散位従四位下で30段階ある律令制度の位階の上から10番目でした。
日本の文化はある意味、渡来人によって支えられて発展していったのですねぇ。
2.他の年、この日の記事
他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。
今日はここまでです。
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