10月3日 <大津皇子が薨去を賜りました。(686年=朱鳥元)>

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686年(朱鳥元)のこの日、天武天皇の皇子の大津皇子が、謀反を企てたとしてとして捕らえられ処刑されました。

これは飛鳥時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

天武(てんむ)天皇は鸕野(うの)皇后(のちの持統天皇)のほか9人の女性とのあいだに、10人の皇子をもうけました。そのなかで、天武天皇がとくに目をかけていたのが草壁皇子(くさかべのみこ)と大津皇子(おおつのみこ)でした。

 

草壁皇子は、鸕野皇后との間に生まれた正嫡で、誕生順で言えば2番目です。ちなみに1番目は高市皇子(たけちのみこ)です。それに対する大津皇子は、お母さんが大田皇女(天智天皇の娘)で、誕生順で言えば草壁皇子の1人後の3番目です。ちなみに大田皇女は、鸕野皇后の同母姉にあたります。年齢的には草壁皇子の1歳下ですが、文武両道、とくに文筆の才に優れていたそうです。天武天皇の諸皇子中では草壁皇子に次ぐ皇位継承の有力候補とされていました。

天武天皇は、どちらの我が子を後継者に指名するかとても迷いました。鸕野皇后からの再三の要請もあり、結局681年(天武10)に正嫡の草壁皇子を立太子(皇太子とさだめるるとを立太子(りったいし)といいます)。その4年後には草壁皇子は諸皇子中最高位の浄広壱位を授けられました。しかしながら、天武天皇の大津皇子への才能もたかく評価していました。大津皇子は、683年(天武12)にはじめて朝政を聴き政治の場に入り、天武から朝廷参与の権限を与えられるほどになりました。朝政を聴くとは、早朝、大極殿に大臣以下が揃い天皇の政務を聴くというものだそうです。

 

しかし、この天武天皇の親心が、大津皇子に大変な悲劇をもたらすことになろうとは、この時点ではだれも知らなかったに違いありません。

 

688年(朱鳥元)9月、天武天皇は草壁・大津両皇子が助け合っていくことを切に望みながら崩御されました。それからわずか15日後のこと、それが今日という日に起きた出来事なのです。大津皇子に、なんと死の運命が訪れました。

 

日本書紀にはこうあります。

「皇子大津、謀反(みかどかたぶ)けむとして発覚(あらわ)れぬ。皇子大津を逮捕(からめ(て、………訳語田の舎(おさだのいえ)にみまからしむ」

皇太子草壁に謀反を企てたとして捕らえられ、世を去る事を強制された、ということなのですが、大津皇子が謀反を企てたというのは事実無根のことであるというのが一般的な見方です。これは、むしろ鸕野皇后が、わが子の前途を阻む可能性のある障壁を取り除いておこうとしたのではないか、とされています。

 

「万葉集」には、この大津皇子が薨去させられるにあたって詠んだ歌が収録されており、また「懐風藻(かいふうそう」にも「五言臨終一絶」を含む詩4偏がのせられています。大津皇子の妻の山辺皇女も皇子もとも世を去りました。

 

しかし、残念ながら草壁皇子は689年(持統3)に皇太子のまま薨御されているのです。

 

親の思いが入り乱れた事件でしたが、草壁・大津皇子両者ともに親の願いとおりには成らなかったのですねぇ。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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