10月6日 <高山右近らが国外に追放されました(1614年=慶長19)>

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1614年(慶長19)のこの日、キリシタン大名の高山右近(たかやまうこん)や宣教師・修道会士など148人はキリスト教の全面禁止を受けマニラ・マカオに国外追放されました。

これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

1614年(慶長19)のこの日、徳川家康はキリスト教を全面的に禁止し、加賀藩の前田氏に保護されていたキリシタン大名の高山右近(たかやまうこん)や宣教師・修道会士など148人をマニラ・マカオに国外追放しました。

 

1549年(天文18)にフランシスコ・ザビエルが鹿児島に到着して、日本でのキリスト教の布教が始まりました。南蛮貿易にメリットがあったこともあり、大名は貿易を望んで宣教師を保護するとともに、布教にも協力し、中には洗礼を受ける大名もいました。高山右近もまた、そうした大名の一人でした。

 

豊臣秀吉もまた、初めはキリスト教の布教を認めていましたが、次第に秀吉の考えは禁教に傾いていきました。その原因には、宣教師が神社仏閣を破壊しているということがあり、それがもとで1587年(天正15)にはバテレン(宣教師のこと)追放令が出され、宣教師を国外に追放する様になったのです。しかし、秀吉は、南蛮貿易を奨励する態度も取っていたので、このキリスト教の取締は不徹底なものでした。ところが、1596年(慶長元)にサン・フェリペ号の土佐への漂着した際、乗組員が吹聴した

「スペイン人は、まず人民をキリスト教により教化し、その後統治して領土拡大する為に宣教師を利用している」

という話が秀吉の知るところとなり、キリスト教への姿勢は非常に厳しいものとなったのでした。

 

その後、徳川家康は最初はキリスト教を黙認していました。それにはワケがあったのです。それは関ヶ原の合戦のとき、高山右近が前田家に従って家康側に加わっていたからです。そして、家康もまた、貿易によって得られる利益を重要視していたことも見逃せません。

 

しかし、家康は儒教思想を基本にして統治する社会を作ろうと考えていたので、キリスト教の思想とは相容れない部分がありました。そこで、幕府は徐々に態度を厳しくしていきました。

1604年(慶長9)に糸割符制度(いとわっぷせいど)を設け、糸割符仲間(いとわっぷなかま)と呼ばれる特定の商人に輸入生糸を一括購入させて貿易を統制し、ポルトガル商人や教徒間のルート貿易によって利益を得ていた者たちに打撃を与えました。更には1612年(慶長17)に直轄領に禁教令を布告し、翌1613年(慶長18)12月に全国的に禁教令を発し、同月23日には徳川家康が金地院崇伝(こんちいんすうでん)に起草させた「伴天連追放令(ばてれんついほうれい)」が、その時の将軍秀忠の朱印を押されて全国に交付されました。

 

この一連の動きで、改宗に応ずる者もいれば、それを拒む者も居ました。前田家に保護されていた高山右近にも影響が及び。前田利家から改宗をすすめられましたが右近は応じなかったため、国外に出ていかざるを得なくなったのでした。

 

マニラに行った右近は、その翌年、病を得て帰らぬ人となりました。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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