10月9日 <孝謙上皇が重祚し、称徳天皇となる(764年=天平宝字8)>

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今日という日はどんな日でしょうか?

日本史の世界の出来事を覗いてみましょう。

 

764年(天平宝字8)の今日、孝謙(こうけん)上皇が重祚(ちょうそ)し、称徳(しょうとく)天皇となりました。この出来事の話に入る前に「重祚」という言葉について触れておきましょう。

 

重祚とは、退位した天皇が再び即位することで、初期の天皇が実在したかは別儀ですが…今上天皇に至るまでの125代ある天皇の歴史においても非常に珍しいことです。その事例はたった2例しかありません、

1例目は、皇極(こうぎょく)天皇が645年(大化元)大化の改新で退位し、弟の孝徳(こうとく)天皇の没後655年に再び斉明(さいめい)天皇として即位した例
2例目が今回の出来事で、孝謙上皇が不和であった淳仁天皇を764年(天平宝字8)藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱の際に廃して、自ら称徳天皇として即位した例

この2件のみです。何れも女帝で前者の斉明天皇は実子の皇太子中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)が存在したにもかかわらず即位し、また称徳天皇は僧道鏡との関係があり、両者とも特殊な政治上の事情があったのではないか?と考えられています。

 

孝謙上皇が天皇であったころ、政界で勢力を伸ばしていた人がいます。光明皇太后の権威と結びついた藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)です。高齢の左大臣橘諸兄(たちばなのもろえ)は仲麻呂によって引退に追い込まれ、諸兄の子の橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)は、仲麻呂に対立していた皇族や大伴氏・佐伯氏らと力をあわせて仲麻呂を倒そうとしますが、757年(天平宝字元)、逆に先制されて奈良麻呂らは厳しい取り調べを受けて亡くなってしまいます。

 

これで、いよいよ仲麻呂の専制の時代の到来です。翌758年(天平宝字2)に、仲麻呂によって擁立された淳仁(じゅんにん)天皇が即位します。仲麻呂は淳仁天皇から恵美押勝(えみおしかつ)の名を賜り、その翌年には太政大臣にまで昇りつめるのです。権力を掌握した押勝は、自らの子や近親で要職を独占しますが、760年(天平宝字4)に後ろ盾であった光明皇太后が薨去されると、盤石と思われた権勢に陰りが見られるようになりました。

 

その頃、孝謙上皇は道鏡を寵愛し、淳仁天皇との不和が目立つようになってくると、押勝は危機感をつのらせ、ついに764年(天平宝字8)に兵を挙げました。恵美押勝の乱です。ところが、密告もあり孝謙上皇側のすばやい対応によって緒戦を失い、地盤である近江から越前に逃れようとしましたが、それも果たせず、ついに亡くなってしまいました。

 

後ろ盾であった恵美押勝を失った淳仁天皇は、764年(天平宝字8)の今日、捕らえられて淡路国に送られて幽閉されてしまいました。そして、孝謙上皇が重祚し、称徳天皇となったのでした。淡路国に流された廃帝淳仁は、翌年逃亡を図りますが捕らえられ、世を去ります。その原因は謎です。淳仁天皇もまた政争に翻弄された不遇の天子なのかもしれません。

 

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