1860年(万延元)のこの日、14代将軍徳川家茂(とくがわいえもち)と幕府とは、孝明天皇(こうめいてんのう)の妹和宮(かずのみや)が家茂に降嫁する旨を発表しました。
これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
1860年(万延元)の今日、14代将軍徳川家茂(とくがわいえもち)と幕府とは、孝明天皇(こうめいてんのう)の妹和宮(かずのみや)が家茂に降嫁する旨を発表しました。
同年3月に起こった桜田門外の変のあと、江戸幕府の中心にすわった老中安藤信正(あんどうのぶまさ)は、アメリカとの通商条約調印がもとで対立が起こっていた朝廷との関係を改善し、それによって幕府批判勢力を押さえ込み、さらには通商条約問題で分裂した国論を統一して幕府の権威を回復させるため、朝廷(公)と幕府(武)とが協調して政局を安定させようとする公武合体政策を進めました。
幕府が、皇女を御台所(みだいどころ:将軍の正夫人のこと)に迎えたいと考え始めたのは、その何年か前からで、1858年(安政5)のころ、井伊直弼(いいなおすけ)から腹心であった彦根藩士の長野義言(ながのよしこと)や宇津木六之丞(うつぎろくのじょう)に当てた手紙に「幕府が朝廷を統制する実を上げる一手段としての降嫁案」が示されています。禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)を厳重に守らせつつ、朝廷に対して経済的援助をおこない、表面上の公武合体を示すための降嫁案だったのです。
1858年(安政5)、将軍家茂は13歳でした。その頃、孝明天皇の血縁関係にある女性は何名か居ました。まず、姉宮であられた敏宮(ときのみや)はその時既に30歳であり、家茂夫人としては不適任でした。そして妹宮の和宮は家茂と同い年の13歳で、年齢からいえばドンピシャだったのですが、その時既に和宮は有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)と婚約済みだったのです。さらにもう一人、孝明天皇の皇女富貴宮(ふきのみや)が同年6月生まれており、政略結婚としては無問題でした。そこで、第一候補富貴宮で…と考えられたのですが、翌1859年(安政6)8月にこの富貴宮が薨去されたため、この降嫁案は和宮一択となってしまったのです。
安藤信正の進めた降嫁案と、井伊直弼が考えていたそれとは、若干意味合いが違う感じがしませんか?
井伊直弼は朝廷を押さえつけて言うことを聞かせよう…という感じでしたが、安藤信正のでは朝廷の力を借りて幕府の権威を強固にしようとする感じなのです。幕府の姿勢は明らかに一歩譲歩したものに変わっていました。
それだけ、その数年の間に幕府の権威が失墜し、幕府が日本を支配する体制のほころびが大きく成っていたのです。幕府の力が地盤沈下する一方で、尊王攘夷運動が高まりをみせつつあったので、皇妹を御台所に迎えて公武一体を進めてしまうことが大切だったのです。
この話が出た時、孝明天皇は難色を示されていました和宮は有栖川宮熾仁親王と婚約も整っており、また和宮は孝明天皇の妹宮であるといっても生母は違うので無理強いがしにくい関係であること、和宮自身が関東なんて野蛮人が住むところ、といって嫌がっていることなどが理由でした。その諸問題に対して、公卿であった岩倉具視(いわくらともみ)が「通商条約の破棄を命じ、攘夷させる道筋を付けるという実を取るために、この降嫁は勅許されれるべき…」と上書し、事は大きく動きました。
その岩倉具視の意見書を受け、孝明天皇は「攘夷が実現するなら…」という思いに変わったのです。
そこで、次のような理由をつけて、有栖川宮熾仁親王と和宮との婚約を破棄させます。
「有栖川宮家は貧乏で、皇妹を迎えるのを迷惑に思っている。また、和宮は、丙午生まれだから有栖川宮家には不適当。だが、将軍家茂は同じ年の丙午生まれだから、相性が良い。」
そうして1860年(万延元)10月18日に孝明天皇は降嫁を勅許なさいました。そして、同年の今日、発表の運びになったのでした。
2.他の年、この日の記事
他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。
今日はここまでです。
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