11月13日 <「浅草12階」と呼ばれて大評判の凌雲閣、オープン(1890年=明治23)>

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127年前のこの日、浅草に凌雲閣がオープンし、東京市中を見渡せることで大評判になり、「浅草12階」と呼ばれて瞬く間に新名所となりました。

これは明治時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

1890年(明治23)のこの日、オープンした凌雲閣は、設計が東京帝国大学のお雇い教師で東京の上下水道計画にも携わった英国人のウィリアム・バルトンで、同年の1月に起工して10月に落成したものでした。

10階までが八角の総煉瓦作りで、11,12階は木造という奇妙な建物で、高さは220尺(66.7m)でした。2〜8階は各フロアとも32坪(約100㎡)と狭かったのですが、名店街方式で商店が46店舗並んでいました。

凌雲閣の遠景の画像を以下に貼り付けておきますね。Wikipediaから無断借用したものです。画像やその下の青い文字からWikipedia大きな画像を見ることができます。

 

<凌雲閣遠景>

 

そして、3階には小休憩所を設けて西洋音楽を流し、9階には新聞縦覧所、10〜12階は眺望室で、30倍の望遠鏡が備えられていました。明治20年代に高所からの眺めを売り物にした望楼建築がブームとなっていたこともあり「浅草12階」と呼ばれて大人気を博しました。しかし、この12階、いつも身体が揺れているようで、恐ろしかったそうです。

 

そのほか、1〜8階まではエレベーターで客を運ぶというので話題となりましたが、このエレベーター故障が多く、翌1891年(明治24)5月には警視庁から使用を禁止されて螺旋階段だけになってしまいました。目玉のエレベーターがコケたので、客足を確保するのに螺旋階段の壁面に花街から選ばれた芸者達の写真を貼り付け、日本初の美人コンテスト「東京百美人」を開催したこともありました。

入場料は、大人:8銭、小児と軍人:4銭でしたが、休憩料:2銭、望遠鏡使用料:1銭は別会計でした。

オープンした翌年の1891年(明治24)の正月には、この凌雲閣で初日の出を拝もうという客がつめかけ、三が日の入場者が2万人を超える大盛況でした。

 

欧化の掛け声のもとに、東京には洋風建築が増えて行きましたが、その多くは官庁や銀行で、庶民とは縁遠い場所が多いのも事実でした。そうしたなかで、凌雲閣は庶民の歓楽街浅草にできた文明開化のシンボルとして、そして上記したように高所からの眺望が楽しめる場所として人気スポットとなりましたが、明治末期には客足が減り、経営難に陥ったそうです。

 

 

1923年(大正12)9月1日に発生した関東大震災により、この凌雲閣は建物の8階部分より上が折れて崩壊し、あわせて火災にも見舞われました。その崩壊した画像もWikipediaから無断借用してきました。

<崩壊した凌雲閣>

 

経営難から復旧が困難であったため、再建は断念することを決め、同年9月23日に陸軍赤羽工兵隊により二度に渡る爆破解体され、凌雲閣は姿を消しました。

この関東大震災の時、浅草にはもう一つ高層建築がありました。それは浅草寺の五重塔(木造33m)ですが、こちらは無傷だったそうです。

 

2.過去年の記事

過去には、こんな記事を書いていました。こちらも併せて御覧下さい。

 

今日はここまでです。

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