1285年(弘安8)のこの日、御家人に有力者安達泰盛(あだちやすもり)を北条氏の家臣が襲い、鎌倉は大規模な合戦の場となりました。
これは鎌倉時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
この時代、日本には特別に大きな出来事がありました。それは1274年(文永11)と1281年(弘安4)にあった蒙古襲来です。この2度にわたる元軍の来攻を退けたものの、いつ3回目の攻撃があるのか…全く予測出来ませんでした。幕府は異国警固番役を引き続き御家人に課し、沿岸の警備にあたらせました。さらに、当時すでに機能しなくなっていた鎮西奉行にかわり、鎮西探題を博多に置いて、北条氏一門をこれに任じました。鎮西探題は京都の六波羅探題に準じたもので、九州の御家人の統轄と訴訟の管轄を行いました。九州の政治的中心は、これを機に太宰府から博多に移行しました。
鎌倉幕府の政治の中心は執権握っておりましたが、北条時宗がその職にあったころ、幕府には2人の有力者が居ました。有力御家人の安達泰盛(あだちやすもり)と御内人(みうちにん)首座(内管領:うちかんれい)の平頼綱(たいらのよりつな)とです。
御内人という聞きなれない言葉が出てきましたので補足説明します。北条家の本家のことを得宗(とくそう)と呼びます。その時分は、幕府の要職を北条氏一門が占め、得宗を中心とする専制政治が成立している途上でした。そして、得宗の家臣は御内人と呼ばれ、有力な御家人として幕府政治に関与するようになっていました。
で、話は戻り、安達泰盛と平頼綱とは勢力争いを続けていましたが、調停役を務めていた執権の北条時宗が1284年(弘安7)に33歳の若さで亡くなりますと、対立はにわかに激化していきます。時宗のあとに執権の座に就いたのは子の貞時で、まだ弱冠14歳でした。この貞時の母親は、安達泰盛の娘であったため、泰盛が若い執権の外祖父として大きな発言力を持っていたことは想像に難くありません。そしてもとより、安達家は以前から御家人中の有力者であり、多くの御家人の信望を集めていました。また、平頼綱は代々北条氏嫡流の家臣であり、頼綱自身も執権貞時の乳母の夫という関係があったので、貞時が執権に就任した際に内管領(北条氏の家宰)という要職に就いたのでした。
この二人は、鎌倉幕府内で大きな勢力を持っていましたが、その存立の基盤は違っていました。泰盛は一般御家人の信望をあつめている豪族として、そして頼綱は北条氏家臣団の代表格として相対していたのでした。両者はともに相手を打倒する機会を伺っており、それぞれに軍勢を秘密裏にあつめ、一触即発の事態となっていきました。
先手を打ったのは平頼綱でした。まだ思慮分別の無い年齢である執権の貞時に次のようなネタを吹き込むのです。
「泰盛の子の宗景(むねかげ)は、父祖の景盛(かげもり)が実は右大将家(源頼朝のこと)の子であったなどといって源氏を称しておりますが。これは自分が将軍になるための陰謀かと思われます…」
そうたきつけて、1285年(弘安8)のこの日、頼綱は一挙に泰盛一族とその一党の誅滅作戦に踏み切ったのでした。
この日の正午頃、鎌倉松谷の別邸から塔の辻の屋形に向かった泰盛を、得宗側(頼綱側)の武士が攻撃し、鎌倉の各所で激戦が起こりました。その余波の火の手によって将軍の御所まで炎上しましたが申刻(さるのとき:午後4時ころ)には戦闘は終わります。泰盛とその子宗景ら安達氏一族、二階堂氏・武藤氏・甲斐源氏らの御家人、安達氏の守護国である上野・武蔵の御家人など500名が亡くなったとされています。
この出来事は鎌倉・関東一帯にとどまらず、地方にも波及します。泰盛の子の盛宗(もりむね)が肥後の守護として九州に居ましたが、博多で命を落とし、また少弐景資(しょうにかげすけ)も安達一族に呼応して岩門城(いわとじょう)で兄の少弐経資(しょうにつねすけ)に攻められ、多くの御家人とともに亡くなりました。これを岩門合戦(いわとかっせん)と呼びます。
この出来事を、発生した月(11月:霜月)にちなんで霜月騒動といいます。その背景については諸説あります。その一つは上記のような御内人vs御家人勢力の争いとして捉える見方。もう一つは執権である貞時の外戚としての安達泰盛と代々北条氏嫡流の家臣としての平頼綱との勢力争い、すなわち幕府の中で雌雄を決する争いであったとする見方です。どちらの説も定説とされるには至っておりません。歴史の真実は闇の中にある様です。ただ、言える事は、この出来事により、御家人の中には北条氏に対抗しうるほどの有力な者は居なくなるほど弱体化しており、得宗専制期と言える時代になった、ということは事実のようです。
2.他の年、この日の記事
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