175年前のこの日、佐久間象山は我が国の海防策に対する研究の結果をまとめ、「海防八策」として上申しました。
これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
江戸幕府老中で海防掛の信濃国松代藩真田幸貫(さなだゆきつら)は、当時の大名のなかでも洋学に理解を示す開明派として知られていました。
その家臣佐久間象山は幸貫の命を受けて海外事情・砲術を研究していました。
1840年(天保11)、アヘン戦争で中国がイギリスに敗れたことに受けた象山は、対外的危機に目覚めたのです。そして、1842年(天保13)のこの日、藩主あてに「海防八策」と呼ばれる上申書を提出しました。それには、西洋列強と戦争になった場合は勝ち目がないとして、オランダより船を購入すると同時に教師を招き、大船・大砲を充実すべきことなどが説かれていました。
象山は、アヘン戦争での中国の敗北は、その原因を思想や学問のあり方の問題と捉え、中国の二の舞いとならないために西洋諸国に対する認識から改めることを力説し、やがて、兵学者・洋学者として天下に名を轟かせる存在となり、精力的に開国・公武合体を説いてまわりました。その名を聞いた英才たちが全国からその門を叩き、勝海舟・吉田松陰・坂本龍馬といった幕末を綺羅星の如く彩る士を輩出しました。
非常に有能な思想家であり兵学者であった佐久間象山ですが、幕末まであと3年ほどの1864年(元治元)7月に、京都で尊攘派に襲われ命を落としてしまいました。
そうそう、佐久間象山の奥方は勝海舟の妹・順なので、勝海舟は佐久間象山の義兄だったのです。
2.過去年の記事
過去には、こんな記事を書いていました。こちらも併せて御覧下さい。
今日はここまでです。
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