11月28日 <松平定信、旧里帰農令を発令。寛政の改革(1790年=寛政2)>

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1790年(寛政2)のこの日、江戸幕府の老中・松平定信は幕府が旅費・農具代を支給することで、農村から都市(特に江戸)に流入した元農民たちから帰国・帰農希望者を募ろうとする旧里帰農令(きゅうりきのうれい)を発令しました。

これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

1786年(天明6)8月に第10代将軍徳川家治が没したのち田沼意次が失脚しましたが、その後も江戸幕府では田沼派の人々と白河藩主松平定信を老中に据えようとする三家・三卿との間で激しい権力争いが繰り広げられました。

しかし、1787年(天明7)5月の江戸や大坂をはじめとする全国30余りの都市で起こった打ちこわし(天明の打ちこわし)は、幕府に強いショックを与え、それがきっかけとなって田沼派が失脚し、同年6月に松平定信は老中に就任して、寛政の改革を断交したのでした。

 

松平定信が老中となって、先ず直面したのが幕府財政の危機的な状況でした。それまで続いた凶作による年貢収入の減少と飢饉対策のため幕府の蓄え金が底を付き、さらに収入は100万両も不足が見込まれていました。

この危機に面した財政を立て直すべく、定信は厳しい倹約令によって緊縮財政策を取る一方、経済的に困窮した旗本・御家人を救済するために1789年(寛政元)には棄捐令を発しました。

しかし、このような緊縮財政では、収入不足に対する解決は見いだせませんでした。そこで、幕府は財政基盤である年貢収入を確保するために農村対策に着手しました。商品経済の浸透により不安定化し、凶作・飢饉により後輩した農村の復興を図ったのです。

商業的農業や商業の展開をおしとどめるために、主穀生産を奨励し、百姓が商業に従事することを抑えようとしました。人口が減少してしまって耕作されず荒れ地が増えた陸奥や北関東に対しては江戸や他国へ奉公や出稼ぎ出ることを制限し、人口を増やすために間引きの禁止や赤子養育金の制度を設け、越後から百姓を呼ぼ寄せたりしました。

 

そして、1790年(寛政2)のこの日、飢饉などで江戸に流入した人々に旅費や農具購入の補助金を与えて農村に帰ることを勧める旧里帰農令を発令しました。この帰農令は、前代の出稼ぎ制限令からさらに一歩踏み込んだ法令でしたが効き目は薄く、1791年(寛政3)・1793年(寛政5)と繰り返し、その主旨を懇切丁寧に説いた法令を出したものの、農民が都市に流入するという問題に対する解決には至りませんでした。

 

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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