11月29日 <国地頭の設置が認められる(1185年=文治元)>

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今日という日はどんな日でしょうか?

日本史の中の出来事を覗いてみましょう。

 

いきなり私事ですが、小生が日本史を習ったころは、鎌倉幕府の開設が、すなわち鎌倉時代の始まりで、

「いいくに(1192)作ろう鎌倉幕府」

と語呂合わせで覚えたものですが、実は、鎌倉幕府の成立時期をいつにするのか?この問題を巡り、これまで以下の6説が主張されてきました。見解の対立は、それを主張する論者の幕府観の相違によってもたらされているとされています。

  1. 1180年(治承4)年末…頼朝が鎌倉に居を構え、侍所を設け、南関東・東海道東部の実質的支配に成功したとき。
  2. 1183年(寿永2)10月… 頼朝の東国支配権が朝廷から事実上の承認を受けたとき。
  3. 1184年(元磨元)10月… 公文所(政所)・問注所を設けたとき。
  4. 1185年(文治元)11月…守護・地頭の任命権などを獲得したとき。
  5. 1190年(建久元)11月…頼朝が右近衛大将に任命されたとき。
  6. 1192年(建久3)7月… 頼朝が征夷大将軍に任命されたとき。

5,6、特に6は幕府という単語の意味に着目した、いわば語源論的な解釈で、古くから主張されています。これに対し他の4説は、軍事政権としての幕府が成立してくる過程に着目しており、なかでは4が最も重要な時点であるとして、現在ではこれを支持する学者が多くなっています。しかし、幕府の基盤は東国にあり、東国の支配政権としての性格を強調すべきだとすれば2説が有力になり、軍事力による実力支配を重くみれば1の見解が主張さ れることになるのです。

 

さて、平安時代末期に大変な勢力を誇った平氏でしたが、1185年(文治元)3月の長門国壇ノ浦での源義経の軍勢との海戦に敗れ平氏一門は、安徳天皇とともに海中に没してしまいました。

 

頼朝の勢力増大を恐れた後白河法皇は、軍事に秀でた才を持つ義経を重く用い、頼朝の対抗者にしようと試みました。頼朝は法皇の動向を警戒し、凱旋する義経を鎌倉に入れず、京都に追い返しました。この出来事では、鎌倉に入る事を禁止され、酒匂・腰越近辺の宿駅にとめおかれた義経が、自らの無実を神に誓った数通の起請文(きしょうもん)や、切々と思いをのべて許しを乞うた「腰越状(こしごえじょう)」と呼ばれる書簡も、兄の頼朝の心を解きほぐすことはできなかった…そうです。来る日も来る日も許しを待ち焦がれた義経のもとに兄から届いたのは、護送してきた平宗盛らを連れて帰京せよ、という命令でした。

 

法皇は帰京した義経と叔父行家に九州・四国の武士の指揮権を与え、そして1185年(文治元)10月18日、頼朝追討の命令を下しましたが、武士たちは頼朝を重んじて法皇の命令に従いませんでした。ぁぁ、哀れな義経は…この話は、またの機会にしましょう。

 

この頼朝追討の宣旨が下されたニュースは同年10月23日には頼朝の耳に入っていました。富士川の戦いで勝利を収め、鎌倉に入って体制固めに着手してから一度もこの地を離れなかった頼朝が動きました。11月1日には駿河国黄瀬川宿に本営を構えました。ここは嘗て、義経と涙の対面を果たした場所でした。その思い出深い場所が、今度は義経攻撃の本営となるとは…運命とは時には残酷なものなんですねぇ。

こちらの、涙の兄弟対面の記事も併せてご確認頂ければ幸いです。→10月21日 <源義経が、兄頼朝と初対面(1180年=治承4)>

 

その頃、一方の義経は孤立してしまっており、尼崎あたりから船で落ち延びていました。その義経と入れ替わりに、頼朝の軍がどんどん京都に入って行きました。思わぬ事態の進展に驚き慌てふためいた法皇は、今回の事件は朕の全くあずかり知らぬところだ…と頼朝への謝りの書面を密使に持たせたのですが、事はそれでは収まりませんでした。

 

ある夜に、法皇の御所に鎌倉からの使者と称する男が現われ、法皇の側近高階泰経(たかしなやすつね)に面会を求めたが、不在と聞くや、大いに怒って文箱を御所の門口の廊下に放り込み、どこかへ立ち去ってしまいました。恐る恐る中をひらくと、先ごろ法皇の密使が頼朝に渡した弁解に対する返書だったのです。それには次のような意味の事が書いてあったそうです。

「行家・義経謀叛のことは、まったく天魔のなせるわさだとおっしゃるが、とんでもないことだ。天魔とは仏法の妨げをなし、人倫のわざわいとなるもののこと。頼朝は多くの朝敵をほろぼし、政権を法皇にお任せしたのに、たちまち謀叛人とされてしまったのは、いったいどういうわけなのか。法皇のお考えとは無関係に、そもそも院宣が下されるものなのか。行家といい、義経といい、召し捕られぬところから、国々も疲弊し、人民も難儀をする。日本国第一の大天狗はさらに他に居申さぬぞ」

 

法皇の無責任な対応を看破し、痛撃し、罵倒するその内容に、御所内はビビりまくりました。

 

このとき、頼朝の代官として1,000人の兵を率いて上京してきた北条時政が、鎌倉側の要求をもって法皇と交渉に入りました。その要求が「守護・地頭の設置」だったのです。

 

そして、その翌日、1185年(文治元)の今日、前日の北条時政の申し入れが受け入れられたのでした。その内容は、国ごとに地頭を設置し、荘園・公領を問わず田んぼ一反あたり五升の兵糧米を徴収する権利を認める、というものでした。これを、一般には守護・地頭の始まりと言っていますが、この日に許可されたのは、国地頭という職であったそうです。

 

今日はここまでです。

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