今日という日はどんな日でしょうか?
日本史の中の出来事を覗いてみましょう。
1651年(慶安4)4月20日、江戸幕府第3代将軍徳川家光(とくがわいえみつ)は、48歳といういわば働き盛りのど真ん中ともいえる若さでこの世を去りました。そして、その後を就いで第4代将軍となったのが、当時11歳であった長子徳川家綱(とくがわいえつな)でした。
3代将軍家光までの徳川幕府の支配のあり方は、内外の戦争に備えた軍事指揮権を発動して、全大名を武力でねじ伏せて従わせる絶対的な力の優越性に基づくものでした。しかも、将軍の命令や武家諸法度に反した大名は、断絶や改易(かいえき)・転封(てんぽう)の処分を行う厳しい支配でした。
戦国時代以来、日本の国内は戦争状態が続いて来ましたが、1637年(寛永14)〜1638年(寛永15)に起こった島原の乱以降は、安定した期間が続いていました。
その一方で、関ヶ原の戦い以降、容赦なく大名の処分をしたため、多数の牢人が出ました。一体どれ位の人数なのでしょうか?その数を明らかにする史料は残っていません。幕府が1649年(慶安2)に定めた規定によれば、1万石の大名は235人の武士を引き連れて出陣することになっていましたので、それだけの武士は名召し抱えていたことになります。その数字をもとにして考証した栗田元次(くりたもとつぐ)博士の説では、関ヶ原の戦い以降1650年(慶安3)の50年間に約40万人、1年当たり8,000人の牢人が出たとされています。これに対して、田原良一(たわらりょういち)氏の説によると、この期間でも加封された大名へ吸収された分があるから、それを差し引けば、実質の牢人は23.5万人位ではないかと見られています。
そうした多数の牢人の問題は社会不安を招く様にもなりました。
1651年(慶安4)、家綱の将軍宣下(せんげ:天皇の命令をうけ、それを官吏が口頭でつたえること)が行われる直前の7月23日に、兵学者の由比正雪の乱(ゆいしょうせつのらん)と呼ばれる出来事がありました。別名、慶安の変(けいあんのへん)とも呼ばれてるこの事件は、正雪が槍の名人の丸橋忠弥(まるはしちゅうや)らの牢人集団を率いて幕府転覆の陰謀を企てているとの密告がされたのです。この事件は、職もなく追い詰められた牢人が、不満をつのらせたのが原因である、と考えられていまう。
この乱は極めて短期間で収束しましたが、その3ヶ月ほどが経った1651年(慶安4)の今日、幕府は牢人の発生を抑えるため、お家断絶の一つの要因となっていた大名・旗本の末期養子の禁を緩和しました。それは、当主が50歳未満の場合には末期養子を入れてお家の存続を図る事を許可したものでした。従来は、当主が世を去る事態に臨んでの養子は、果たして本人の意志かどうか判らず、お家騒動のもととなるので禁止されていました。この緩和でも、50歳以上の当主に跡継ぎがなかった場合は、依然、末期養子は禁止され続けました。その部分は、1683年(天和3)の「武家諸法度」において緩められるのを待たねばなりませんでした。
この時期、すなわち由井正雪の乱を契機として幕府の大名や牢人への政策、いや、その一面のみならず幕府政治の全局面が武断政治から文治政治へと大きく転換いったのでした。
「浪人」は、本来は浮浪人を意味したそうです。主家を持たない武士身分は「牢人」と表記しますが、牢の字を嫌って、江戸時代中期以降は浪人の字を使う様になったそうです。
今日はここまでです。
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