12月12日 <武田・徳川軍、今川氏の領国を攻撃(1568年=永禄11)>

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449年前のこの日、武田軍は今川軍を駿河国薩埵峠(さったとうげ)に破り、徳川軍もまた遠江に侵入を果たしました。今年の大河ドラマの舞台の話ですね。

これは室町時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

1560年(永禄3)5月、桶狭間の戦いで討たれた今川義元の跡を継いだ氏真は暗愚の君主でした。氏真は、寵臣三浦義鎮(みうらよししげ)に国政をゆだねて遊蕩三昧にふけっていたこともあり、領国内も十分に治められない状態でした。義元の死後、数年はその母の女大名こと寿桂尼が存命していたこともあり、東国のパワーバランスは一気には変わりませんでした。

 

その頃の東国はどんな様子だったでしょうか?

 

織田信長は、中央(京都)絡みの動きをしており、東国に関しては三河の徳川氏に一任していました。

その東国の勢力は、「戦国大名」のなかでなじみ深い越後を本拠とする上杉謙信、甲斐の武田信玄、相模の北条氏康が3大勢力であり、そして駿河・遠江両国を今川義元の死後、暗愚な君主の氏真が治めていました。

 

こうした情勢のなかでもっとも意欲的に活動していたのは、甲斐の武田信玄でした。武田家は鎌倉以来の甲斐の守護大名という名門で、父信虎のときまでにともかく一族の内紛や守護代・国人らを抑えて戦国大名に成長したのでした。

信虎の嫡男、信玄は智略と勇武に優れた武将で、周囲を山々にかこまれ、 海をもたない閉塞的な領国には満足することはありませんでした。周辺国に兵を動かし、さらには天下一統にもみずから意欲を示す様にもなっていきました。

こうした武田氏のうごきが周辺国に対する「甲・相弓矢(こうそうきゅうや)」「駿・遠国切(すんえんくにきり)」といった作戦になり、また武田家に対抗する体制が「越・相一和(えつそういちわ)」という関係に結実するのでした。

 

1568年(永禄11)に信長が入京を果たしますが、その直後の同年のこの日に、武田信玄は甲府を発して駿河国の薩埵山(さったやま)を攻め、ついで徳川家康も遠江に入って井伊谷(いいのや)・刑部(おさかべ)・白須賀(しらすか)・宇部山(うべやま)の諸城を落としました。

この軍事行動は、家康と信玄とのあいだに大井川(おおいがわ)を境界として駿州は武田、遠州は徳川という具合に切り取ろうという「国切りの御約信」が成立したからでした。

これは今川氏にとってはまったく予期していないことでした。信玄は瞬く間に駿府を占領し、今川氏真は遠江掛川にほうほうの体で逃れたのでした。

 

 

2.過去年の記事

過去には、こんな記事を書いていました。こちらも併せて御覧下さい。

 

今日はここまでです。

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