12月15日 <ノッサ・セニョーラ・ダ・グラッサ号事件発生(1609年=慶長14)>

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408年前のこの日、長崎に入港していたポルトガル船ノッサ・セニョーラ・ダ・グラッサ号が、肥前日野江藩主の有馬晴信に攻撃されて自沈しました。

これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

この事件が起きた前年、チャンパ(占城)に渡航した肥前日野江藩主の有馬晴信の朱印船が、帰路マカオで紛争を起こし、それを当時マカオの総司令官であったアンドレ・ペソアが鎮圧したという出来事がありました。その際、日本人側の乗組員に多数の死者が出て、また徳川家康の荷物を積んだ朱印船も焼かれてしまったことに発端がありました。

 

ノッサ・セニョーラ・ダ・グラッサ号は、マカオへの日本人渡航を禁じる朱印状を携えており、その扱いをめぐるなかで事件は発生しました。

 

有馬晴信は徳川家康の了解を得て、1609年(慶長14)12月12日、兵船30艘と1,200人の兵を動員し、ノッサ・セニョーラ・ダ・グラッサ号を攻撃したのです。まる4日の戦闘の末、船は炎上し、船長のペソアは火薬庫に火を放って商船を爆破させ、自沈し、またペソア自身も自ら命を断ちました。

事件後、江戸幕府はポルトガルと断交しましたが、1611年(慶長16)9月通商再開を許可し、1604年(慶長9)に制定した糸割符(いとわっぷ)制度をポルトガル側に遵守させました。

 

この事件は、1612年(慶長17)に岡本大八事件を引き起こし、その後の幕府のキリスト教禁止政策を招きました。

 

実は、この事件はデウス号事件とかマードレ・デ・デウス号事件とも呼ばれていますが、ポルトガル史料での船名はノッサ・セニョーラ・ダ・グラッサ号なので、記事の題名もポルトガル資料に合わせたものにしてあります。

 

 

 

 

2.過去年の記事

過去には、こんな記事を書いていました。こちらも併せて御覧下さい。

 

今日はここまでです。

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