1758年(宝暦8)のこの日、江戸幕府第9代将軍徳川家重の次男重好が江戸城清水門に宅地を与えられ、清水家が創立されました。
これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
本日の記事は、徳川将軍家の親族のうち江戸中期に設けられた田安・一橋・清水の三家・「御三卿(ごさんきょう)」のことです。
江戸時代で忘れてはならないものの中に「御三家」というものがあります。こちらは、徳川将軍家の親藩のうち、尾張徳川家・紀伊徳川家・水戸徳川家の三藩のことです。尾張家は家康の9男義直、紀伊家は10男頼宣、水戸家は11男頼房を初代とします。
江戸幕府第8代将軍徳川吉宗は、自分の血縁から御三家のような存在を作ろうと考えました。それは、江戸時代も中期になると御三家の血統も疎遠となり、将軍継嗣候補の資格に不備を生じたので、その欠陥を補い、さらに加えて御三家の制御を図る為であろうと考えられています。
そして吉宗は、
1731年(亨保16):吉宗の次男右衛門督宗武を田安家
1740年(元文5):吉宗の4男刑部卿宗尹を一橋家
の二家を創立し、これを「御両卿」と称しました。
さらに第9代将軍徳川家重は御両卿に続き、1758年(宝暦8)のこの日、次男の宮内卿重好に江戸城清水門に宅地を与え、清水家が創立され、それ以来「御三卿」の呼称も成立したのでした。
この三卿は、10万石の賄料と江戸城田安門・一橋門・清水門に宅地(屋敷)を与えられ、格式は御三家の尾張・紀伊家に準じ、また御三卿の処遇は同等でした。御三家に準ずる、といっても大名ではなく、将軍家の厄介、すなわち「家族」の一員としての扱いでした。それは幕領にも限度があったので大名への取り立てを断念した結果でした。なので10万石といっても、知行国がバンっとあるワケではなく、関東・機内とその周辺5〜8箇所に領知が分散されていました。
この御三卿の重要な使命には、徳川将軍家に後嗣がない際には、その家族として将軍の後継者を提供する役割を担っていました。また、徳川御三家へ後継者を供給することにもなっていました。事実、一橋家からは家斉・慶喜が入嗣継統しています。
この御三卿を記憶する方法がありましてね、
たやす(田安)なひとつばし(一橋)のしみず(清水)を
と言って覚えるようです。
ちなみに御三家の覚え方は
き(紀伊)みと(水戸)はおわり(尾張)だね
です。
2.過去年の記事
過去には、こんな記事を書いていました。こちらも併せて御覧下さい。
今日はここまでです。
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