12月23日 <足利直義、天竜寺船派遣を決定(1341年=暦応4・興国2)>

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今日という日はどんな日でしょうか?

日本史の中の出来事を覗いてみましょう。

 

1341年(暦応4・興国2)の今日、天童寺造営費用捻出ために対元貿易船、天竜寺船を派遣する事が正式に決定しました。

 

1339年(暦応2・延元4)、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が吉野山の行宮(あんぐう)に没すると、足利尊氏は、夢窓疎石(むそうそせき)の建言に従って先帝の冥福を祈念して禅寺を建立することを思い立ちました。その敷地には、後醍醐天皇が少年時代をすごしたゆかりの場でありながら、当時荒廃していた亀山殿があてられました。

 

この寺が、現在の天竜寺です。

 

天竜寺造営は、きわめて大規模な建築だっただけに、竣工にこぎつけるまでには莫大な費用を必要としました。当初は安芸・周防二国の公領からの収入をあてる計画でしたが、しかし、それだけではとうてい足りなかったらしいのです。そこで考えだされたのが、中国元への貿易船の派遣を認めるかわり、その特権の代償として金銭を納入させる、という費用補填の計画でした。これを案出したのは、のちに天竜寺第一世住持となる夢窓疎石で、管轄にあたったのは足利直義でした。

 

これがいわゆる天竜寺船です。その正式名称は天竜寺造営料唐船(てんりゅうじぞうえいりょうとうせん)と言います。

 

この天竜寺船は、博多商人の至本(しほん)が貿易実務を請け負いました。幕府と至本とのあいだでは、「商売之好悪」にかかわらず、帰朝のさい、天竜寺造営費として現銭五千貫を納めるという契約がかわされ、第一回の天童寺船は、翌1342年(康永元・興国3)の秋、元に向けて出航しました。

 

 

実は、こうした貿易収入に頼らなければならなかった背景があるのです。

 

時は南北朝時代、その南北両朝間の争いは既に北朝の圧倒的な優勢にむかっていましたが、荘園・公領は諸国の武士の横領されるがままになり、幕府も北朝も深刻な財政危機に陥っていました。こうした中で武士の荘園・公領侵略を抑制し、武家と公家・社寺勢力との融和によって政局の安定を目指す幕府としては、公武統一の促進策として天竜寺造営計画を立案したものと考えられています。

 

『天竜寺造営記録』によれば「度々有評定、群議不一揆」とあり、足利直義から朝廷の明経・明法博士の意見を求めるなど経余曲折がみられるのも、幕府・朝廷内の様々な反対意見のためであろうと推察されます。これらをたくみに調整したのが直義と夢窓疎石であったと思われます。通説では尊氏が後醍醐天皇の怨霊に苛まれたとされていますが、こうした形で尊氏をもち出すに至った幕府首脳の苦慮の痕跡と推測されています。

 

一方、元朝側はフビライ没後急速に厩戦的になり、また倭冠による海賊貿易を却ける意味からも、平和裡に貿易利潤を国庫に収めることを望むようになっていきました。沿岸七ヵ所に市舶司を設置したのはその端的な表れです。日本からはこうした機運に乗じて勝長寿院・建長寺造営料唐船、 関東大仏造営料唐船などが派遣されており、 今回の天竜寺造営料唐船の計画は鎌倉幕府の政策に範を求めたものでした。

 

この天竜寺に関しては10月5日にもblogを書いています。こちらも併せてご一読頂ければ幸いです。直後にリンクを貼り付けておきます。→10月5日 <足利尊氏が、天竜寺を創建(1339年=暦応2・延元4)>

 

今日はここまでです。

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