12月22日 <わが国の内閣制度がスタート(1885年=明治18)>

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今日という日はどんな日でしょうか?

日本史の中の出来事を覗いてみましょう。

 

1885年(明治18)の今日、明治新政府の機構改革が行われ、太政官制が廃止となり、それにかわって近代的な内閣制度が発足しました。

 

それまで、皇族及び公家や大名出身者をもってあてられていた太政大臣・左大臣・右大臣や、「藩閥」政治家の有力者が就任していた参議の職を廃し、各省の行政長官を国務大臣として、新しく内閣総理大臣をおき、その統轄のもとに各国務大臣をもって内閣を構成し、政治運営の中心としました。これは国会開設に備えて行政府の強化・能率化・簡素化をはかるとともに、責任体制を確立するのが目的で、これによって、主に薩長出身の藩閥政治家たちが名実ともに実力者として、政治の中枢部を占めることになったのでした。

 

また、内閣制度の制定に伴い、天皇の側近にあって相談相手(常待輔弼:じょうじほひつ)の任にあたる内大臣(初代は三条実美:さんじょうさねとみ)をおいて御璽(ぎょじ)・国璽(こくじ)の保管など宮中の所務を管轄させ、また宮内省を内閣の外におきました。

 

こうして、府中(ふちゅう)と宮中(きゅうちゅう)との別を明らかにし、宮中を政治から切り離すようにしました。なお、内閣制度の制定とともに、伊藤博文が初代の内閣総理大臣に就任して、内閣を組織しました。その10名の闘僚中4名が旧薩摩藩、4名が旧長州藩出身者で、閣僚の平均年齢は46歳余り(数え年)と壮年の実力派内閣でしたが、反対派からは旧薩長出身者中心の藩閥内閣であるとして攻撃されました。閣僚に占める薩長出身者の比率は、その後しだいに減少しましたが、大正の初めまで、公家出身の西園寺公望(さいおんじきみもち)、旧肥前藩出身の大隈重信を除けば、総理大臣はいずれも旧薩長出身者で占められていました。

 

第一次伊藤内閣の顔ぶれは以下の通りで、派閥均衡をとったものであったといっても良いでしょう。

官職・氏名・出身・年齢・爵位

  • 総理:伊藤博文:長州:45:伯
  • 外務:井上 馨:長州:51:伯
  • 内務:山形有明:長州:48:伯
  • 大蔵:松方正義:薩摩:51:伯
  • 陸軍:大山 厳:薩摩:44:伯
  • 海軍:西郷従道:薩摩:43:伯
  • 司法:山田顕義:長州:42:伯
  • 文部:森 有礼:薩摩:39:ー
  • 農商務:谷干城:土佐:49:子
  • 逓信:榎本武揚:幕臣:50:ー

 

こうした内閣制度が出来た背景には、従来の太政官制度では、天皇を輔弼る太政大臣・左右大臣が皇族・華族に限定さ れ、実権を持つ参議・卿は直接補弱できなかったので、国務処理が渋滞しがちでした。そこでドイツの大宰相型を範とした内閣制度が採用されることになったのです。

 

こんなエピソードがあるそうです。

明治天皇は総理大臣=太政大臣との感覚がお強く、格式のない家柄の伊藤がその職につくことに難色をお示しになられました。そこで、三条実美が二度まで拝謁して御承認を求めた結果、やっとこれを承知なされたそうです。

 

また明治天皇は森有礼についても、キリスト教徒である点をご懸念なさいましたが、伊藤博文が「叡慮をわずらわせることのないよう責任を持つ」との決意を表しようやく許しが得られた、ということです。

 

今日はここまでです。

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